5月25日、大阪史跡探訪 天王寺・夕陽丘編のイベント(世に云う市中引廻し)が開催されました。とにかく歩く!という事で阿倍野駅で全員集合までの間、新人の私は、ベテラン片岡さんご指導の元、軽く準備運動をさせていただきました。
曇天の下、本日の講師:長谷さんの爽やかな笑顔に導かれ、まずは午前の部「阿倍野墓地(大阪市設南霊園)」へ。事務局長ご子息のタッちゃん(史跡巡りにかけては私より彼の方が先輩です)と戯れつつ、ぬかるみに足をとられつつ、墓地に寓居する方々にビビりつつ巡りました。すべては書き切れませんので、印象に残ったお墓をいくつか挙げてみます。
*外山脩造−越後に生れ、河井継之助に師事した方。関西人にとっては阪神電気鉄道初代社長としても馴染深い人物ですね。継之助の臨終に際して「寅や、おみしゃんは商人になりやい」との薫陶を受けた寅太さん、ちゃあんとその言葉を実現しています。何かいいなあ。凄いなあ。墓所に植えられた「ぬしゅぱっ」と伸びる松の向こうの曇空に蒼い龍が見えたと同時に今年は阪神タイガースいっちゃうよ!と思いました。この時は。
*長州藩殉難四十八士−元治元年の蛤御門の変で敗退し捕えられ、千日前刑場で刑死・牢死した45名および尼崎で自刃した山本文之進、薩摩藩御用船焼き討ち事件で切腹した水井精一、山本誠一郎の3名、計48名のお墓です。ひとりひとりの名が刻まれた48の石柱が顕彰碑を囲んで「コ」の字型に並んでいます。「コ」の字の開かれた部分に鳥居があり、ちょうど方角でいうと西北西にあたるようです。何だか非業の死を遂げた彼ら48人が故郷を見ているような構図になっているなあと思いました。
*五代友厚−天保6年生、龍馬とは同い年なんですね。大阪経済の父だけあって、墓地のほぼ中心部に立派なお墓があります。ここではちょっとした発見がありました。関東からご参加の皆川さんによると「堀孝之」寄贈の灯籠があるとの事。えーと誰ですか?その方は?何でも慶応元年に薩摩からイギリスに留学した一行の通詞を勤めた方だそうです。しかし、流石よく見ていらっしゃる。教訓「見逃すな 史跡の隅にも 名が光る」
というわけで午後の部へ向かいます。途中で「飛田新地」をサラっと通過。小川さんによると夜になるとたいそうきらびやかな場所だそうですよ。
午後の部は四天王寺夕陽丘駅集合。午後から参加の方々も加わって出発です。晴れ間が見えはじめましたが、その分暑くなってきました。天気晴朗ナレドモ気温高シ。
駅を出てすぐの「加賀藩大坂蔵屋敷ゆかりの石鳥居」からスタート。やはり、すべては書き切れませんのでご了承ください。続いて「燃えよ剣」ゆかりの地、料亭「西昭庵跡」。現在は夕陽丘学園という学校になっています。そう言えば、ドラマの方の「燃えよ剣」ではこのあたりはサスペンス物のラストに出てくるような断崖絶壁でしたが…因みに実際の西昭庵を実際の土方歳三が訪れたことは「多分、まず、ない」とのお話でした。では、お寺が立ち並ぶ道を北へ向かいます。
*齢延寺−門が見えた途端に皆さんから「新しくなってる!」等の声が。成程、門前に5月13日完成とあり、改装したての様子。ここには儒学者「藤沢東ガイ」「藤沢南岳」・土佐藩刀工「左秀行」・土佐勤皇党「島村寿太郎」のお墓があります。「島村寿太郎」のお墓は、多くの無縁仏の墓石が階段状に連なる最上段にありました。朝から色々とお墓を見ていますが、ここでは改装したてのお寺と無縁仏という取り合わせに何だか感慨深いものがありました。
お寺を出て道を西へ。天王寺七坂のひとつ「源聖寺坂」を下っていきます。風情あるこの坂は絶好の記念写真スポット。というわけで、フォトグラフを1、2、3枚。3の倍数の時には皆さんバ…笑顔になって撮影しました。松屋町筋に出て次の史跡へ−
*萬福寺−新撰組大坂屯所となっていたお寺で、谷万太郎他20人ほどが詰めていたそうです。本堂は昭和45年の火災後に新築されていますが、当時を偲ばせるものとして天保年間に建てられた灯籠が残っていました。ここでは慶応元年、倒幕の密謀を行ったとの理由で捕縛された儒学者「藤井藍田」が拷問死しています。捕縛理由も大した根拠があるわけでなく、単に新撰組の功績をあげたかったためとの説もあるとの事。また、納屋で拷問死した際の藍田の絶叫が耳に残った当時のご住職は、その納屋を板で囲ってしまったそうです。事件の凄惨さを実に生々しく伝える話に慄然としました。
再び北に向かって、谷町九丁目交差点という名の国境を越えて中央区へ入ります。アーネスト・サトウが来坂の折に宿泊した「本覚寺跡(今は大きなマンション)」の前の道を北へ。
*法性寺−明治2年浪華(大阪)仮病院の開設にあたり、ボードウィンが教師として招聘された際、法性寺を菩提寺とする薩摩藩御用商人薩摩屋(川端)半兵衛と緒方洪庵を通して親交があった縁でここを寓居としたそうです。今回、明治3年に帰国する時にボードウィンが惜別の記念として残した品と緒方家から川端家に贈られた写真板を見せていただきました。遺品の青い砂糖入れと白い菓子器からは何だか阿蘭陀のかほりが。厚さ数センチもある写真版には薩摩屋の半兵衛・法性寺客殿・上記の砂糖入れが写っています。展示ケース越し等ではなく生で拝見させていただけたのは、貴重な体験でした。
また、ご住職さんからはこんなお話も伺いました。なんでも以前に上野公園にあったボードウィンの銅像は何と弟さんの写真をもとに作られた像だったそうです(えええぇ)その事実を知ったご住職さんが寄付をつのり、平成18年にご本人の姿の像を寄贈したそうです。上野に行ったら是非確認に行きましょう。なお、この法性寺には坂本龍馬が潜伏していたとの話もあるとか。ご住職さんのお話よると、震災後、芦屋にある川端家の蔵に整理のため業者の方が出入りした→その後しばらくして神戸方面から龍馬の手紙のようなものが出た?との話が伝わってきたので、もしかしたら…との事。何となくワクワクする話です。お話の後、お菓子をいただいて、薩摩屋半兵衛の墓所を見せていただきました。
伊庭八郎宿泊の地「大仙寺」の前を通って、再び天王寺区に戻ります。生國魂神社前の「水戸藩士 川崎孫四郎自刃の所」と「笠間藩士 島男也旧居跡」でお話を聞いて、谷町筋に出て南へしばらく歩きます。
*吉祥寺−外壁のだんだら模様が目を引く門を入ると、大石内蔵助像がお出迎え。奥に進むと赤穂義士四十七士像がド迫力で鎮座しています。ここはもう「プチ赤穂浪士ランド」ですね。このお寺は大坂における浅野家の菩提寺だったそうです。では、道路を渡りまして−
*稱念寺−こちらの「陸奥宗光及び陸奥家墓所跡」は一般には公開されていません。今回大阪龍馬会のイベントということで特別に見学させていただきました。ご住職さんのご好意に感謝。ありがたいことです。この地はもともと陸奥宗光の父「伊達宗広」が「自在庵」という庵を結んでいたところで、昭和28年に鎌倉に移葬されるまで陸奥家の墓所となっていたそうです。今では宗光の最初の奥さん蓮子さんの墓碑のみが残っています。また、墓所ができた当初から植えられている菩提樹も1本だけ残っています。もともと4本あった内の1本で、ご住職さんが何とか残していこうと挿し木などをされているそうです。静かに大事に守られている場所だなあと感じました。この他、墓所には古河財閥初代頭首「古河市兵衛」寄贈の灯籠や、「星亨・原敬・林董」らの名前が刻まれた灯籠があり、「夕陽丘の外務大臣」を偲ばせるものがありました。
墓所の門前には宗広の生涯と事績を顕彰する「夕陽丘阡表碑」、原敬による「陸奥宗光に追慕の意を表す碑」「伊達宗広の句碑」があります。この門前の史跡案内板には秘密が。なんでも大阪に数ある史跡の案内板の中で「坂本龍馬の名前が登場する」のはこちらだけなんだとか。「坂本龍馬先生の名前が読める案内版は稱念寺前だけ!」 うわーマニアックな豆知識!碑が並ぶ中央にはお地蔵さんがあります。こちらは「清(さや)地蔵」と言い、宗光の2番目の奥さん、美女として有名な亮子さんとの間に生まれた娘、清子さんが20歳の若さで亡くなった際、その死を悼んで設けられたもので等身大のものだそうです。
なお、夕陽丘のこの付近には「小松帯刀」の墓所もあったそうです。明治9年に鹿児島に改葬されており、場所については「この付近」ということまでしかわからないそうですが…うーん、今年の大河ドラマで小松帯刀が亡くなる場面では夕陽丘に夕陽が沈むシーンがあったりしそうですよ…
続いて、「口縄坂」。塀の上の猫と遊ぶ事務局長の大きな背中になごみました。ここでは「町歩きツアー」とおぼしき団体様とすれ違いました。そして、疲れが出てきた私の目前に長い階段が立ち塞がります。しかし、皆さん結構元気ハツラツ登って行くではないですか。そこに史跡があるから?というわけでファイト一発。
*大江護国神社−午前中訪れた阿倍野墓地に葬られた長州藩士48人の招魂社。こちらの石碑は「山口藩」殉難諸士招魂之碑となっていて、裏面に48人の名が刻まれています。
恋愛成就で有名な「愛染かつら」でも個人的にファイト一発。「料亭 浮瀬跡」「清水坂」あたりを巡り、国道25号へ。ここも七坂のひとつ「逢坂」のようです。
*一心寺−奇抜な外観のインパクトに圧倒されつつ、広い境内で少し休憩。こちらには鳥羽伏見の戦いで戦死した「白井五郎太夫」を始めとする会津藩士のお墓や「東軍戦死者招魂碑」があります。もともと徳川家にゆかりのあるお寺だそうで、徳川四天王の本多忠勝の息子、本多忠朝のお墓もありました。
茶臼山の横を通り、ラブホテル街へ突入。時刻もそろそろ暮六つ近く…
*統国寺−到着時には門限を過ぎていたのですが、ご好意で入れていただきました。こちらには上記の萬福寺で獄死した「藤井藍田」のお墓と正五位贈位記念碑があります。お話の補足として、藍田が捕縛される際には、覚悟を決めたのか朝食を取るまで相手を待たせて潔く縄についたとの事でした。また、こちらのお寺には何故かベルリンの壁もありました(何故ここに?)この壁を見たほぼ全員の頭に「その時 歴史は動いた」というフレーズが浮かんだに違いありません。
そして、天王寺公園の第6代大阪市長「池上四郎像」を柵越しに見つつラスト。予定のすべては回れなかったものの、拍手の中、無事全行程が終了。途中経過で上田さんの万歩計は1万7千だったそうですが、最終的にはどこまでいったのでしょうか?皆様、お疲れさまでした。これほどの場所を効率よく回れるよう手配いただき、充実のテキストをお作りいただいた講師の長谷さん、ありがとうございました。イベント参加は2回目ですが、すっかり味を占めたと言いますか、転がる石のようにと言いますか、ちょっと言い回しは間違っていますが、歴史を知る楽しさにますますハマった一日でした。
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