2009年 (平成21年)
1月3日
龍馬速報 110号発行 56頁
  • なんでもあり、堺史跡探訪(片岡)
  • 墓前祭と大津史跡探訪(本谷)
  • 旅立ちの鐘(桧垣)
  • 会員さんからのハガキより−近況報告
  • 幕末維新史籍紹介16−京都・相国寺周辺+岩倉(林)
  • 幕末維新史籍紹介17−北海道・厚沢部・木古内・福島・森(林)
  • 板垣退助の戊辰戦争11(中原)
  • 坂本龍馬の神葬を行った霊明神社(中原)
  • 書籍紹介(林)
  • 龍馬の手紙 11回目(林)
  • 大坂の史跡を訪ねて39(長谷)
  • 幕末ニュース(林)
1月25日
新年会 会場:鳥よし
恒例の新年会。龍馬会10大ニュースや景品争奪クイズ大会など大いに盛り上がりました。
2月11日
総会+講演会「史跡巡りの楽しみ方」 講師:事務局長:林慎吾氏・北浦康男氏・長谷吉治氏 22名

 大阪森ノ宮の市立中央青年センターで大阪龍馬会総会を開催しました。22名の方にご参加いただきました。

 まず、総会は横山定氏を議長に選出し、2008年度活動報告と決算報告を林事務局長より報告し、2009年度活動方針案と予算案を林事務局長から提案があり、質疑応答の後、原案通り了承されました。その後、小休憩をはさんで、講師3人による「史跡巡りの楽しみ方」の話がありました。林事務局長は、イベントを案内するまでどのように史跡を探し出し、史跡を探すコツなどを話しました。長谷幹事は、3月のイベントで案内する史跡をどのように発見したかなど。北浦幹事は、街道を詳しく案内。吉田松陰が歩いた道を地図上でふりかえりながら、自分たちが今住むこの町のこの道を歩いたなどの紹介がありました。三者三様で楽しいひとときでした。

Q本日の講師のお話はいかがでしたか?

  • 講師の方々はお忙しい中、資料を作ってくださり奥深い話をありがとうございました。
  • 大変内容が濃く勉強になりました。ありがとうございました。
  • 楽しかったです。私も史跡巡りは好きでよく行きますが、これほどマニアックなことは・・・。がんばります! 来年の大河目指して大坂の幕末史跡を盛り上げましょう!
  • 三者三様でとても面白かった。
  • みなさんわかりやすかったです。眠くならずちゃんと聞くことが出来ました。街道沿いの地図で〒マークをさがしておりました。
  • イベントが出来るまでの苦労が分かり改めてありがたく思いました。いつもたくさんの史跡を見つけて下さることに頭が下がりました。史跡巡りに行った気分になりました。おもしろかったです。
  • いつもイベントに参加しながら講師の方達の大変さは想像はしておりましたが、今回のお話を聞いて今更ながら痛感しました。お三方共それぞれユーモアを交えながらのお話しはとても楽しく聞かせていただきました。
  • 相当ハードな現地の下調べや書籍との巡り合わせですのに、そんなご苦労もすごく楽しんでおられる。講演も段々力が入り弾んで汗も噴き出して笑いも出て本当に心から楽しんでおられるのが伝わり、マニアック100%以上を再認識しました。講師の興奮度も高まり聴き方も興奮しました。大変な下調べ後にイベントで楽しませて頂いていることに、そして三人の講師を支えているご家族にも、感動と感謝です。ありがとうございました。

Qためになったエピソードや印象に残った話はありますか?

  • 史跡調査の時は子供を連れて行くこと
  • 小型カメラを2台以上持って史跡巡りされることをおすすめします。(私の経験です)カメラが壊れることもありました。
  • 郵便局は旧街道沿いにあることは初めて聞きました。
  • 特定郵便局はたいがい街道沿いにある。会堂を探すなら特定局をさがせってことですか。
  • 松陰の日記から歩いた道を読み解いていくのがとても面白かったです。
  • 北浦さんのお話にあった吉田松陰の日記から寄宿した宿が分かったことなどすごいなと思いました。それにつけても松陰先生の日記は簡潔で分かりやすいですね。
  • 専稱寺の話。先人の歩いた道には何かある。吉田松陰逗留の旅籠がなくならないことを祈ります(龍之くんの功績が大きいですね)。
  • 郷土史、図書館、古文書(古本屋)など探す。調査のマナーなど。

3月15日
龍馬速報 111号発行 56頁
  • 大阪史跡探訪の見どころ(イベント案内)
  • 新年会盛り上がりました
  • 総会レポート
  • 書籍紹介
  • 幕末維新史蹟紹介18−京都 東福寺・泉涌寺(林)
  • 幕末維新史蹟紹介19−宝暦治水1(林)
  • 鹿児島史跡探訪 珍道中 報告記1(楢崎)
  • 良誠会事件簿 1 大坂海軍塾(結城詩)
  • 龍馬の手紙 12回目(林)
  • 霊明神社と坂本龍馬の埋葬について(中原)
  • 大坂の史跡を訪ねて38(長谷)
  • 幕末ニュース
3月29日
大坂史跡探訪vol.8 講師:長谷吉治氏  34名
 桜がちょうど咲き始めた3月29日、龍馬会に入会してから初めての大阪史跡探訪イベントに参加しました。講師が長谷さんのこのイベントは、「とにかく歩くよ!」という噂は聞いていたので、体調も整え、気合い十分で参加しました。集合場所の西長堀駅に到着すると、すでに多くの老若男女が集まっていて、何度見ても不思議な光景(笑)。
 こんな性別世代を超えた人たちを惹きつけてしまう幕末明治維新という時代、そして大阪龍馬会ってすごいなあ、と改めて実感する瞬間です。

 長谷さんが「大阪龍馬会」の旗を掲げて、いざ出発。噂通り、たくさん歩いてたくさん巡った中から、いくつか書かせて頂きます。まずは土佐藩蔵屋敷跡(土佐稲荷神社)です。土佐藩大阪蔵屋敷内に鎮守社として享保2年(1717年)に建てられましたが、明治期になると蔵屋敷跡地は岩崎弥太郎の所有になり、桜の木がたくさん植えられたそうです。今でも桜がたくさん咲いていて、この辺りでは桜の名所との事。出店もあったりして、一足早いお花見気分も味わえました。そしてここ土佐稲荷神社は、堺事件の11烈士ゆかりの地でもあります。事件に関わった29名がここで謹慎になり、その中から切腹する20名をみくじで決めたそうです。堺イベントの時に妙国寺でみた遺髪や血染めの三方を思い出し、また切ない気分になりました。

 そして近くにあるのが三菱発祥の地、岩崎弥太郎邸跡。今まであまり大きく取り上げられる機会がなかった岩崎弥太郎が、来年の大河ドラマ「龍馬伝」で準主役的な立場で描かれるそうで、演じるのは香川照之さんとの事ですが、どんなドラマになるのか非常に楽しみです。正直、あまり彼に注目することはなかったのですが、土佐稲荷神社に桜を植えたり、東京に移っても土佐稲荷だけは三菱で守ることにした事など、結構粋な人物だったのかも、と思ったのでした。

 さらに司馬遼太郎は、この土佐藩蔵屋敷跡にある通称マンモスアパートで「竜馬がゆく」を執筆していたそうです。土佐藩ゆかりの地で、土佐の男を描くって、うーん、すごいです。

 土佐つながりで言えば、土佐海援隊大坂詰所「薩万」跡です。今まで場所の確定がされていなかったそうですが、長谷さんの長年の研究により場所が推定出来たということで、今回案内して頂きました。あみだ池筋の車線の上ということで、現在は全く面影は無くなっていましたが、何よりこの場所を調べた長谷さんに脱帽でした。

 私の会社の近くに適塾があるので、どうしても注目してしまいます。適塾出身はそうそうたるメンバーですが、今回のイベントで言えば、大村益次郎寓居跡、福沢諭吉誕生地です。大村益次郎は、長崎から再び適塾に戻った際に、江戸堀にあるこの寓居跡から適塾に通っていたそうです。借家でしたが、初めて家を持ったことを記念し「漏月庵」と名付けたそうで、月明かりの中で勉学に励んでいた姿が思い浮かびます。そして、さすが有名人、福沢諭吉誕生の地には立派な石碑が建っていました。京都などもそうですが、限られた地域や空間で、偉人たちが同時に関わりあって活躍していたことを思うと、すごい時代だったんだなあと感心してしまいます。

 他にも勝海舟寓居(順正時)跡や、薩摩御用商人濱崎太平次邸「ヤマキ」跡等、まだまだ書ききれない程たくさんの史跡を案内して頂きました。

それにしても今回巡った地域には、経済や学校関係、藩屋敷の史跡が多いことを実感しました。大阪市在住、勤務先も淀屋橋という私ですが、自分の行動テリトリー内に、こんなにたくさん史跡があることを知りビックリしました。またひとつ、大阪に住むことが楽しくなった一日でした。

講師の長谷さん、本当にありがとうございました。そしてイベントに参加された皆さん、お疲れ様でした。来年の大河ドラマの影響で、龍馬が注目されると思いますので、これを機にますます大阪龍馬会が盛り上がるよう、私も頑張ります!

        
4月12日
大坂史跡探訪vol.9  講師:長谷吉治氏  
 桜の季節も終わり、出かけるにはちょうど良い時期となった4月12日に『大坂史跡探訪・VOL.9』が催された。
 集合場所である四つ橋線・肥後橋駅に着いた時は、ほとんどの参加者が集まっていた。「皆さん、歩く気満々やねんなぁ。」と感心した。この日の参加者もすごく多く、30名は越していたように思えた。

 最初に案内されたのは宇和島藩蔵屋敷跡である。宇和島藩というと真っ先に出てくるのが幕末四賢侯の一人・伊達宗城(むねなり)である。伊達家とは、やはりであるが藩祖は伊達政宗の長男・秀宗だという事だ。伊達宗城は、高野長英や大村益次郎(当時は村田蔵六)などの優秀な人材を、藩内外問わず登用していたという事だ。

 西区の靭公園東北角に大阪科学技術センターがあるが、幕末の頃は五代友厚邸があったそうだ。明治時代より大阪での功績がある五代だが、皆さん知っての通り薩摩藩出身である。薩摩藩家老・小松帯刀と懇意にしていた五代は、帯刀の死後その愛妾・お琴と娘を引き取りこの邸内に住まわせていたという事である。また、やはり同じ薩摩藩出身である大久保利通が、明治7年12月から翌8年の『大阪会議』までこの邸に宿泊したそうだ。

 淀屋橋界隈まで歩き、オフィス街の中(淀屋橋西側の住友ビル辺り)まで行くと講師の説明があった。後藤松陰の私塾“広業館”跡である。「松陰って、なんで吉田松陰と同じ!?」と思ったが、考えたら雅号が同じなだけで人物は全くの別人だ。頼山陽が京都に私塾を開いた時の最初の弟子で、儒学者であり漢詩人である。吉田松陰が嘉永6年(1853年)にここを訪れ、2人の松陰が対談したという事だ。

 御堂筋に出て土佐堀通り・淀屋橋を渡ると、日本銀行の大阪支店に着いた。その東側半分には江戸時代、島原藩蔵屋敷があった。幕末の島原藩出身の志士と言うと・・・すみません、誰も浮かばなかったです。ちなみに、西側半分には加賀藩蔵屋敷があったそうだ。
 その向かいには大阪市役所があるが、その前の御堂筋上には幕末期には水戸藩蔵屋敷があったそうだ。水戸藩と言えば、万延元年(1860年)の桜田門外の変、元冶元年(1864年)の天狗党の乱などが思い出される。

 それから、京阪電車・大江橋駅まで移動して開通約6ヶ月の中之島線に乗った。と、その前に改札階にある通路の壁に掲示されてある“中之島界隈蔵屋敷跡”というモニュメントを見た。古地図のようなとても面白いモニュメントだった。そこで講師の一言、「この図が載っている本がこちらの本屋で販売されていますよ。」と聞いたとたん、どうしても買いたくなってその本屋へと入ると、みんなわれもわれもと同じ本を片手に龍馬会の会員で突然レジが大混雑、お店の人もビックリしていただろう。

 大江橋駅から1駅のなにわ橋駅で降りて、上がるとすぐにあるのが駅の名前にもある難波橋だ。江戸時代には天神橋・天満橋と共に“浪花三大橋”と呼ばれたそうだ。また、幕末には京都で活躍した儒学者・池内大学の首がさらされた場所でもあった。以前からこの橋はよく見ていたが、いつも「ライオン橋」と呼んでいた。橋の両端にライオンの像が備えられているからだ。だから、この橋の本名が難波橋とは知らなかった。このライオン像は対になっていて、口を開けている阿形像(あぎょうぞう)と口を閉じている吽形像(うんぎょうぞう)がある。難波橋の向かい側にある大阪証券取引所前には、平成16年に建立された五代友厚の像が建っている。

 その取引所ビルの東端に専崎楼跡があった。明治8年(1875年)の大阪会議の際に伊藤博文がここに泊まり、また木戸孝允と対談した場所だという事だ。

 そこから天満橋の方へ歩くとすぐにあるのが、今でも営業をされている花外楼だ。元冶元年(1864年)、追われて京都から逃げてきた長州藩士を匿ったそうで、以後は志士達の集合場所になったとの事だ。明治時代になってからは、大久保利通が木戸孝允や板垣退助らと数日間をかけて話し合いが行われた場所でもある。花外楼の隣にあるビルの壁には『三権分立 漸次立憲 合意に至る(大阪会議)』のレリーフがあった。

 少し先へ行くと今度は瓢箪屋跡があった。ここは安政2年(1855年)に清河八郎が宿泊した料理旅館だという事だ。東横堀川に架かる葭屋橋の近くにあり、現在はビルになっている。

 葭屋橋を渡り、川沿いまで降りて次の説明を聞いた。竹式楼跡である。長岡藩士・河合継之助が宿泊したところで、越後の長岡から備中松山藩の山田方谷を訪ねるため西へと向かい、大坂に到着した際ここに泊まったのだ。現在はどこかの作業所になっているらしく、それらしき車両が止まっていた。

 さらに先へ行くと、天神橋が見えてきた。この橋は私が今まで見た橋の中で1番気に入っている橋だ。堂島川と土佐堀川、2つの川に架かるこの橋を渡っている時にふと上を見ると、空がとてつもなく広く見える。いや、実際に空はとても広く大きいものだが、都会に住んでいるとマンションやビルがたくさん建っているためあまり広い印象を受けない。だから、ここから空を見て癒されるのである。夕方に西の空を見ると、大阪湾の方へと沈んでいく夕日がまた格別である。

 天満橋には今も“八軒家船着場”という水上バスの乗り場がある。以前の松阪屋裏手の川岸にあり、観光客やデートなどで休日はとても人が多い。しかし、幕末の頃は現在の場所ではなくもう少し西側にずれていたらしい。京都〜大坂までは船で下り、この辺りの船宿で休憩または宿泊した人達は熊野参詣へと出かけるのである。そう、この辺りを起点として熊野街道があったのだ。その碑が建っていて、四天王寺を通り住吉さらに堺へと続く街道の地図が描かれていた。ちなみに、8軒の船宿があった事から“八軒家”の地名が付けられたという事だ。

 新撰組の定宿・京屋忠兵衛跡が見えてきた。現在は、私もここで買いたいと思っているチーズ屋さんの辺りがそうである。水帳(検地帳や人別帳を意味するそうだ)に寸法が記されているらしく、テキストの写真には巻き尺で測量しているのがあった。「えっ、ここまでするの!?」と思ったが、もっと驚いたのが歩道に“京屋忠兵衛”と付箋らしきものを貼り付けてあった事だ。参加していた人のほとんどが驚きの声をあげていた。

 そして、その隣にあったのが坂本龍馬ゆかりの堺屋源兵衛跡である。京都伏見の寺田屋と提携していたらしく、龍馬が、定宿の寺田屋から船に乗って大坂へ着いて利用したのが堺屋ではないだろうか、との説明を受ける。ここにも、先ほどの京屋跡と一緒で歩道に“堺屋源兵衛”と付箋らしきものが貼り付けてあった。どこまでも追究、という事を忘れてはならないと教えてもらったような気がした。ホント、いかにもこの講師らしいですわ・・・。

 永田屋さんという昆布屋の入口に“八軒家船着場の跡”という石碑が建っている。実際にあったのはキャッスルホテル裏手のビル付近なのだが、永田屋さんの御懇意で石碑が建てられたという事だ。船着場には常夜灯があったが、現在は生國魂神社の境内にある。

 江戸時代から残っているという階段を上がると、市民の憩いの場という感じの公園があった。北大江公園というらしい。そこの縁石に全員腰をかけながら、講師から『大阪会議』の全容を聞いた。公園前のマンションには江戸時代から明治時代まで三橋楼という料亭があったそうだ。高台にあるため、天神橋・天満橋・京橋の3つの橋を眺望する事ができたので三橋楼(サンキョウロウ)と名付けられたとの事だ。明治6年に、征韓論で敗れた西郷隆盛や江藤新平ら維新の貢献者が政府を去り、木戸孝允も思うところがあって下野する。1人政府に取り残された大久保利通は、このままではせっかくできた新政府の存続が危ういと、下野した木戸や板垣退助を政府へ呼び戻すため大阪へ乗り込んでくるのだ。五代友厚や井上馨らの助力があり、まずこの三橋楼で木戸と大久保が対談する。話は進まず、伊藤博文の宿泊先であった専崎楼で、木戸の宿泊先であった加賀伊でと、何度も話し合った結果明治8年2月11日、加賀伊において和解が成立し条件付きではあるが、木戸・板垣は政府へ復帰する事となった。大阪会議の成功を記念して、木戸自らが筆を取り「花外楼」という書を残したのだ。その後、店の称号も「花外楼」と変更されたという事だ。

 天満橋駅の方へと向かい、地下鉄で谷町四丁目へと移動する。と、その前に現在の八軒家船着場まで行き、大川をバックに記念写真を撮る。すぐそばにはカフェがあり、中からお客さんが不思議そうに私達を見ていた。大阪に観光で来たかなり田舎の人達、と思われたに違いない。

 谷町四丁目駅を出てすぐのところで舎密局の説明を受ける。明治2年(1869年)、理化学を勉強する場所として公立の学問所が開校されたとの事だ。オランダ語のシェミー(科学を意味する)を当て字としてこの名前が付けられたらしい。明治22年京都に移転し、後に京都大学となったそうだ。

 次に向かったのが大村益次郎寓居跡である。漏月庵と名付けられたこの住居から適塾へ通ったという事だ。大村が初めてこの家に入った時、月がとても明るく軒の廂から月が見えてそれをすごく気に入ってそう命名したとの事だ。

 そこから歩いてしばらく行くと、大阪商工会議所に着いた。五代友厚や土井通夫らの銅像が建っている。彼らは、大阪商工会議所の会頭を務めているという事だ。

 東横堀川に架かる大手橋を渡り、だんだんとオフィス街に入って来た。ちなみに、私が勤めている会社はこの近所だ。幕末期にはこの付近に船宿・河内屋与次兵衛跡がある。京都伏見の日野屋孫兵衛と提携していた船宿で、その日野屋には龍馬も宿泊した事があると手紙に残している。その日野屋から船で大坂に来て、宿泊するとするならばここ河内屋ではないだろうか、と講師は言う。今も昔も、業務提携というのは大事なことだと私は思った。それに、勝海舟が住んでいて尚且つ大坂海軍塾だった専稱寺にも近く、可能性としては大きいなと思う。

 堺筋を渡り、少し行くと普通のビルの方を向いて講師の説明があった。そこは、月照の生誕地であるという事だ。清水寺成就院の住職を務めていた月照も生まれは大阪だったのだ。

 本町駅の方へと歩き、また新しい史跡みたいだ。と言っても石碑や案内板はない。近藤長次郎の妻であるお徳の実家・大和屋弥七邸が、この辺りにあったと説明を受けた。近藤長次郎とは、みなさんご存じのように龍馬と同じ土佐藩出身で、しかも龍馬の実家とは近いところに住んでいた。その頃は饅頭屋長次郎と呼ばれていたが、後に勝海舟の門下生となり龍馬と共に亀山社中(海援隊の前身)を設立した、龍馬を知る上で重要な人物なのである。しかし、その奥さんの実家って・・・講師のこだわりがまた垣間見えた気がした。

 ここでタイムアウトとなり、家路へと急ぐ人・飲み会へと急ぐ人に分かれたのだった。
 本当に、どれだけ数があるのか・・・。VOL.1から始まり今回がVOL.9である。数えたら700箇所は超えているのではと思われる。私はいつから参加したのか忘れてしまったが、最初から参加されている方は優に700箇所は回っている。素晴らしい数字だ、と感心してしまった。
 長谷講師、これからももっと大阪の史跡追究を頑張って下さい。そしてVOL.8に続き今回もありがとうございました。
        
5月17日
高瀬川・木屋町 幕末史跡散歩  講師:片岡英理子氏
 5月17日、大阪龍馬会イベント「木屋町&高瀬川史跡散歩」が開催されました。歴女ブームの波に乗って(?)片岡さんの講師デビュー戦でもあります。あいにくの雨、迫りくるインフルエンザの脅威の中、早速、神宮丸太町駅から鴨川河川敷へ――といきなり雨足が強くなってきましたよ〜

 丸太町橋を渡って「山紫水明処 頼山陽書斎」へ。篤姫様もご愛読、幕末の志士達にも大きな影響を与えたベストセラー「日本外史」で有名な頼山陽先生の書斎です。こちらは、一般公開はされておらず見学には予約が必要。一度に大勢は入れないため、2組に分かれて係の方のお話を聞きました。
 文政11年に建てられたこの書斎、対岸から見ると日本昔話に出てきそうな佇まいでしたが、内部は、大変に凝った造りです。障子にはギヤマンガラス(当時はこれ1枚の代金で家が建てられたとか)、葦(よし)を漆仕上げした網代作りの腰板、南天の自然木を使った遊び心のある出窓、丈夫な栗の木を使用した中国風の洒落た感じの縁側の格子。

 中でも面白かったのは赤松材の床柱です。思い入れのある古材をリサイクルして使ったものだそうで、埋め木されている部分を見せていただきました。なお、当時は鴨川の流れが建物のすぐ下まで来ており、山陽先生は執筆の合間に縁側から釣りを楽しんだり、庭の降り井(半地下になっている井戸)から汲んだ水で茶を点てたりしたそうです。
 また、「山紫水明」という言葉は、元々「山は紫に、水は明かに見える」時分(午後4時頃)をさしたものだとか。実に居心地のよいお座敷でしたので、ここで思う存分ごろごろしたい、今日も明日もごろごろしたいという思いにかられました。都会の真ん中にこれほどの場所があって、大切に保存されていることに感動です。
 道を北に向かい、近藤勇VS幾松さんの逸話で有名であり、薩土盟約の舞台となった吉田屋跡。今はこざっぱりした駐車場になっていますが、古写真付のきれいな碑が建てられています。この地はその後、「清輝楼」という料亭となり、ここを仮校舎としてスタートしたのが立命館大学なのです。なお、このあたり一帯、現在は普通の住宅街ですが、幕末の頃は三本木という有名な花街で、明治3年から5年までは公営の遊里があったそうです。
 南に下って、木戸孝允旧跡「石長松菊園」。病に倒れた木戸孝允の終焉の地となった場所です。石長松菊園側とお宿せきちょう側の2か所に「木戸孝允旧邸」の石碑がありますが、下部の文字がツツジの生垣で見えなくてちょっと残念。また、京都市職員会館敷地内の当時から残っている建物の前には「明治天皇行幸所木戸邸」の石碑が建っています。明治天皇の碑は各地にありますが、一個人のお見舞いに来た際の記念という点でここは価値がありますよね。そう言えば、こちらの旅館は修学旅行生の宿となっていましたが、中に幕末オタの学生さんがいたならウハウハ気分ではないでしょうか?
 続いて舎密局跡を右手に見つつ高瀬川の一之舟入へ。江戸時代初期、豪商角倉了以によって、京都と伏見を結ぶ運河として開かれた高瀬川。この川を行き来する高瀬舟の港となっていた場所が「舟入」です。当時は9カ所もありましたが、現在では一之舟入以外の場所は埋め立てられているそうです。水の綺麗な川には米俵や酒樽を積んだ船がディスプレイされており、当時の雰囲気が感じられ、何だか癒されました。
 川沿いに少し下ると左手に大村益次郎寓居跡。さらに少し南側の川の対岸には、(佐久間)象山先生遭難之碑と大村益次郎卿遭難之碑が並んで建てられています。元治元年と明治2年にそれぞれこのあたりで襲撃を受けて殺害される両名ですが、幕末の志士の中でも超個性的なこの二人、暗殺に関する碑が仲良く並んでいる様子をあの世から見て、お互いの事をどう思うのでしょう。
 

料理旅館「幾松」など料亭等が並ぶ通りを抜けて――京都ホテルオークラ前へ。このあたり一画は長州藩邸跡です。これまたツツジに囲まれて下部が見にくくなっている「長州屋敷」の石碑の前で雨をしのぎつつ、八・一八の政変から、禁門の変に至る流れのお話をききました。個人的にこのへんの複雑な流れには幕末にハマった当初、ずいぶんと混乱した記憶があります。

 

 河原町通側に回って男前の桂小五郎像。ここで講師の片岡さんが「ここに像がたっていますが(云々)―」と解説している中、「たってないよ〜座ってる〜」と鋭いツッコミを入れた人物が、誰あろう事務局長ご子息、龍之君!でした。タッちゃん、史跡探しだけでなくお笑いの才能もあるのでは!?因みに桂小五郎の像というのは日本全国ここにしかないそうです。地元長州にもありません。その理由もお聞きしましたが、桂さん、つくづく不憫というか報われないですよね。なお、個人的には2010年の大河ドラマ主役の福山雅治は龍馬さんより桂小五郎のイメージなんだけどなあ。いや個人的に。

 御池通を渡って佐久間象山寓居跡へ。元治元年、幕府の要請で京に上った象山は、ここを拠点に洋風の馬具をつけた馬に乗って朝廷側などに開国論を説いて回ったそうです。現在は駐車場になっていますが、「佐久間象山寓居之址」の石碑は、駐車上の看板に思いっきり幅寄せされています。プライドの高い象山先生がみたら、激怒すると思います。

 続いて武市瑞山寓居跡「金茶寮」。当時は「四国屋丹虎」という旅館で、池田屋事件の際には土方歳三の隊が探索したという話でも有名。現在では「料亭 金茶寮」となっていますが、武市が使用していた部屋は残っているそうです。石碑「武市瑞山先生寓居之跡」の側面には「武市半平太(月形半平太)」とあります。ここはひとつ「春雨じゃ濡れて参ろう」と洒落込みたいところですが、流石にこの日の雨にそこまで体を張る方はいませんでした。

 すぐ隣は吉村寅太郎寓居跡。文久3年2月に入京してから天誅組の挙兵までの約半年を過ごした場所になります。因みにお隣の丹虎の「おくに」という娘さん(美人)は、寅太郎に思いを寄せていて身の周りの世話をしていたそうです。肖像画の寅太郎の純朴そうな顔と天誅組の結末を考えると何とも切ない話です。

 三条通に出て、一気に繁華街となりました。まずは、池田屋騒動跡。メジャーな史跡だけあって、ガイドマップ片手に見学に来ている観光客がチラホラ見受けられました。最近ニュースにもなっていましたが、夏には居酒屋「池田屋」としてオープンするそうです。やはり一度は御用改め(?)に訪れてみたいですよね。「維新史跡 池田屋騒動之址」の石碑の東側歩道には「池田屋事変跡地 元治元年六月五日(西暦1864)」と記された金属プレートが埋め込まれています。このプレート、気付かない人も多いのではないでしょうか?ヘタすると思いっきり踏まれていたりしますよね。

 豊臣秀次のお墓を左手に見て、坂本龍馬寓居跡「酢屋」へ。海援隊京都本部だった場所です。幕末には材木商だった酢屋さん。現在でも創作木工芸のお店として昔の雰囲気を残されています。ところが、向いのお店がいつの間にか「焼肉 小倉優子」になっています。やっちゃいましたね。海援隊のメンバーの名前が記された説明板を写真に撮ろうとすると、派手な看板の焼肉ダイニングの文字も映り込むではないですか。世界の海援隊とこりん星というミスマッチ。何という混沌たる現代。そんな不思議空間では、池田屋事変について解説をいただき、皆さんで集合写真をパチリ。もちろん「酢屋」をバックにですよ。
 再び、木屋町通りへ出て、新しく建てられた石碑へ。此付近坂本龍馬妻お龍独身時代寓居跡・此付近京都府知事中井弘幕末期寓居跡。今年3月に京都龍馬会さんによって建てられた碑です。何と言ってもお龍さんの「独身時代」という響きがいいですね。この付近とあるように、お龍さん回顧談によると、実際はもう少し四条通りよりかもしれないそうですが、正確なところは今のところわかってないそうです。

 今度は四条通に出まして、坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地。龍馬と慎太郎が暗殺された近江屋の跡です。四条河原町のメインストリートだけあってかなりの人通り。ほとんどの人は石碑には注目しないまま通り過ぎていきます。ここは以前、旅行代理店でしたが現在は工事中になっています。場所を移して近江屋についてのお話を聞きました。当時の河原町通は4メートルくらいと幅が狭く、近江屋の入り口自体がかなり道路側になるそうです。その点を考えると、ちょうど石碑のある上のあたりが暗殺の現場となったのかも?との事でした。成程、何だか町並みの中に建物のパースが立ちあがってくるような感じがします。

ところで、テキストには龍馬暗殺黒幕説諸説が解説されていましたが、この表にのっていない人物で、かなり怪しい人物がいますよね?いませんか?

 土佐稲荷神社。もともとは土佐藩邸の中にあった稲荷社。こちらの龍馬像は損傷がひどいのですが、既に原型をとどめないほどになっています。風化ではなく明らかに人為的なものですよね。心ない人の行為には非常に腹立たしく感じますが、そろそろ修復に入ってほしいところです。

 続いて土佐藩邸跡。川沿いの「土佐藩邸跡」の石碑の他に、黒っぽいビルの下の方に「土佐藩役宅址」のプレートがあります。歩いてみると、改めて近江屋と土佐藩邸の近さを感じ、ツライものがありますね。こちらでは土佐藩邸内で起こった事件として、麻田時太郎の切腹の一件のお話を聞きました。当時の士道というものについて非常に考えさせられる事件だと感じました。なお、このビルには以前、龍馬、瑞山、寅太郎、慎太郎の「土佐四天王像」があったそうです。写真で見るとかなりかっこいい像なのですが、復活はしないのでしょうか?

 木屋町通りをさらに南へ下り、本間精一郎遭難之地。この石碑の奥の路地で、文久2年、本間精一郎は田中新兵衛、岡田以蔵らによって天誅の名のもとに惨殺されたそうです。ここにはその時に岡田以蔵がつけたと言われている刀傷が残っています。以前は通り抜けができる路地だったそうですが、今では扉があり通常は見ることができません。今回は扉を開けていただいており、見学することができました。柱にカッと刻まれた刀傷の跡は、路地の細さとそろそろ時刻的に薄暗くなりつつある事との相乗効果もあって非常に生々しく感じられました。

 再び河原町通りに出まして中岡慎太郎寓居之地。土佐藩御用達書店「菊屋こと鹿野安兵衛宅」白川の陸援隊に移る前に慎太郎が隠れ住んでいた場所です。この菊屋の少年、峯吉君が近江屋事件では重要な証言者なります。現在この場所は、あぶらとり紙専門店になっていて、お店の前に石碑があります。この石碑、以前は露地の奥に置かれていたそうです。でも、あぶらとり紙と慎太郎さんの組み合わせも何だか不思議ですね。

 最後は古高俊太郎邸跡(しる幸)。グルメガイドによると「しる幸」は、利休弁当やお味噌汁が有名だそうです。そんな優雅なイメージとは反対に古高俊太郎といえば、苛酷な拷問ですよね。古道具屋「桝屋」を隠蓑に密かに武器弾薬の収集が行われていた古高邸に、元治元年6月5日に新撰組の捜索が入るわけですが、もともとは宮部鼎蔵の捕縛という別件での捜索だっただけに運が悪いと言えば、悪いのでしょうか?何だか、先ほどの刀傷といい、拷問といい、非常にダークな世界に入り込んでのラストとなりました。そして雨は降り続くのでした。

 講師の片岡さん、雨の中のご案内およびわかりやすいテキストの作成をありがとうございました。当初は緊張気味かな?とも思いましたが、熱い想いが伝わってきました。後半にいくにつれすっかり落着いた様子で、流石だと思いました。そして、事務局長をはじめとする会の皆さんのあたたかいバックアップにも愛を感じました。

 鴨川縁の優雅な世界から繁華街方面に向かう中、徐々に幕末のダークな世界へと至っていく流れに感慨深いものがありました。また、今回巡った史跡のすぐ側では日々の暮らしが普通に営まれているあたり、京都という町の奥深さを感じた一日でもありました。そしてインフルエンザが大事にならなくて本当によかったです。

        
6月7日
龍馬速報112号 発行 64頁
  • 龍馬大学校の御案内(吉田松陰の足跡)
  • 連続講座 龍馬大学校−「龍馬伝」を楽しむための基礎講座
  • そうじゃ、京都行こう! 幕末史跡散歩に参加して(岡田)
  • 大坂史跡探訪vol.8に参加して(本谷)
  • 大坂の史跡を訪ねて−目指せ10回目!−(片岡)
  • 良誠会事件簿 2 「月明かりの下で」(結城詩)
  • 幕末維新史蹟紹介21 宝暦治水2(林)
  • 書籍紹介
  • 板垣退助の戊辰戦争12(中原)
  • 龍馬の手紙 13回目(林)
  • 幕末維新史蹟紹介20 京都・二条城近辺(林)
  • 大坂の史跡を訪ねて40「新たに判明した史跡」(長谷)
  • 鹿児島史跡探訪 珍道中 報告記 2(楢崎)
  • 幕末ニュース
 8月30日    龍馬大学校 吉田松陰の足跡 講師:北浦康男氏  
   

●吉田松陰について話を聞いて新たな発見がありましたか?

  • 至誠の人というイメージが強い松陰先生にも楽しいところがあったのですね。幼い時にかなり今でいえばスパルタ教育を受けて育ったのに元々の人間性なのでしょうか。目下の人や関係のあった人々に不思議なくらいやさしく接する事が出来たということがすごいと思います。

  • イメージ的に松陰は龍馬より一昔前の人と思ってました。ペリーが来た時、二人は江戸で出会った可能性があるのですね。毎回驚きますが30歳ですか。若いですね。

  • 天才聖人、近寄りがたい人の印象だったが短い人生で東西多くの旅、密航などの行動力、先見の明とか人脈の多さに驚くばかりです。密航が佐久間象山の影響ということを初めて知りました。辞世の句やエピソードから親しい家族への優しさを、また普通の人だと垣間見ました。

  • たくさんあると思います。密度が濃く、また消化しきれてないです。後半が特におもしろかったです。

  • 松下村塾での松陰は門下生と友人のように接した・・・というのは、師であった玉木への反発心であったように思える。あまりの厳しさに自分はそうならないと決めていたような・・・でも後の過激さは玉木の強さを感じさせます。気持が先走り計画性に乏しい人。

  • 身体弱かったのですね。本当に勉強好きでまじめな性格って改めて確認しました。津も松陰先生の足跡なんですね。母の故郷なのに知らなかったです。行ってみたいな!!

  • 吉田松陰。幕末に入るきっかけでした。松陰の本を探しているときに「竜馬がゆく」に出会い、龍馬に没頭しました。その後長い間忘れていた松陰を思い出し、かなり勉強しましたが、知らないことが多かったです。師と弟子との会話や手紙のやり取り。鬼気迫るものもあれば、嘆きの手紙もある。600通近い手紙をぜひ読んでみたいですね。玉木から松陰、そして高杉や久坂へ続く「思想」ははたして現代まで続いているのだろうか? 人間吉田松陰に改めて惚れ直しました。そしてその魅力を語ってくださった北浦先生にも惚れ直しました。

 

●北浦先生に感想をどうぞ

  • たくさんのテキストありがとうございました。準備が大変でしたね。テキストの内容はとてもわかりやすくて良かったです。それにしても松陰さんの旅日記はすごいですね。

  • とても判りやすく簡潔にまとまっていて良かったです。途中で時間が心配になってます・・・。足跡はリアル感があり迫力がありました。

  • 終始やわらかな口調でした。熱意が感じられました。詳しいテキストです。ありがとうございました。

  • ものすごい資料、ありがとうございました。ちょっとでも消化できるよう今後努力します。準備が大変だっただろうと思います。本当にありがとうございました。

  • とにかくテキストが素晴らしい。毎回進化しているテキストに驚き感動します。姥が餅の演出は北浦氏らしくてとても良い!

  • 費用録の調査計算あっぱれ!! 大変だったでしょう!? めちゃめちゃ楽しくておもしろかった。おもしろおかしく膨大な資料を分かりやすくコンパクトにまとめてくださりありがとうございました。伊豆の話は躍動的でワクワクでした。

  • 本当にすごいテキストとスライドの数。感動です。講師の真剣さが伝わってきます。かなり準備期間があったんでしょうね。仕事とテキスト作りの両立。本当にご苦労だったと思います。北浦先生のことだから資料集めなど結構こっていたのではないでしょうか?

  • 龍馬会はマニアック集団!!といわれていますが、「人」が好きなんですね。好きな人のことを真剣に一生懸命調べる。それを皆さんにお話しする。一生懸命だから感動もたくさん伝わる。今回の吉田松陰は本当に勉強になりました。そして講師の姿勢に感動しました。

 
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