桜の季節も終わり、出かけるにはちょうど良い時期となった4月12日に『大坂史跡探訪・VOL.9』が催された。
集合場所である四つ橋線・肥後橋駅に着いた時は、ほとんどの参加者が集まっていた。「皆さん、歩く気満々やねんなぁ。」と感心した。この日の参加者もすごく多く、30名は越していたように思えた。
最初に案内されたのは宇和島藩蔵屋敷跡である。宇和島藩というと真っ先に出てくるのが幕末四賢侯の一人・伊達宗城(むねなり)である。伊達家とは、やはりであるが藩祖は伊達政宗の長男・秀宗だという事だ。伊達宗城は、高野長英や大村益次郎(当時は村田蔵六)などの優秀な人材を、藩内外問わず登用していたという事だ。
西区の靭公園東北角に大阪科学技術センターがあるが、幕末の頃は五代友厚邸があったそうだ。明治時代より大阪での功績がある五代だが、皆さん知っての通り薩摩藩出身である。薩摩藩家老・小松帯刀と懇意にしていた五代は、帯刀の死後その愛妾・お琴と娘を引き取りこの邸内に住まわせていたという事である。また、やはり同じ薩摩藩出身である大久保利通が、明治7年12月から翌8年の『大阪会議』までこの邸に宿泊したそうだ。
淀屋橋界隈まで歩き、オフィス街の中(淀屋橋西側の住友ビル辺り)まで行くと講師の説明があった。後藤松陰の私塾“広業館”跡である。「松陰って、なんで吉田松陰と同じ!?」と思ったが、考えたら雅号が同じなだけで人物は全くの別人だ。頼山陽が京都に私塾を開いた時の最初の弟子で、儒学者であり漢詩人である。吉田松陰が嘉永6年(1853年)にここを訪れ、2人の松陰が対談したという事だ。
御堂筋に出て土佐堀通り・淀屋橋を渡ると、日本銀行の大阪支店に着いた。その東側半分には江戸時代、島原藩蔵屋敷があった。幕末の島原藩出身の志士と言うと・・・すみません、誰も浮かばなかったです。ちなみに、西側半分には加賀藩蔵屋敷があったそうだ。
その向かいには大阪市役所があるが、その前の御堂筋上には幕末期には水戸藩蔵屋敷があったそうだ。水戸藩と言えば、万延元年(1860年)の桜田門外の変、元冶元年(1864年)の天狗党の乱などが思い出される。
それから、京阪電車・大江橋駅まで移動して開通約6ヶ月の中之島線に乗った。と、その前に改札階にある通路の壁に掲示されてある“中之島界隈蔵屋敷跡”というモニュメントを見た。古地図のようなとても面白いモニュメントだった。そこで講師の一言、「この図が載っている本がこちらの本屋で販売されていますよ。」と聞いたとたん、どうしても買いたくなってその本屋へと入ると、みんなわれもわれもと同じ本を片手に龍馬会の会員で突然レジが大混雑、お店の人もビックリしていただろう。
大江橋駅から1駅のなにわ橋駅で降りて、上がるとすぐにあるのが駅の名前にもある難波橋だ。江戸時代には天神橋・天満橋と共に“浪花三大橋”と呼ばれたそうだ。また、幕末には京都で活躍した儒学者・池内大学の首がさらされた場所でもあった。以前からこの橋はよく見ていたが、いつも「ライオン橋」と呼んでいた。橋の両端にライオンの像が備えられているからだ。だから、この橋の本名が難波橋とは知らなかった。このライオン像は対になっていて、口を開けている阿形像(あぎょうぞう)と口を閉じている吽形像(うんぎょうぞう)がある。難波橋の向かい側にある大阪証券取引所前には、平成16年に建立された五代友厚の像が建っている。
その取引所ビルの東端に専崎楼跡があった。明治8年(1875年)の大阪会議の際に伊藤博文がここに泊まり、また木戸孝允と対談した場所だという事だ。
そこから天満橋の方へ歩くとすぐにあるのが、今でも営業をされている花外楼だ。元冶元年(1864年)、追われて京都から逃げてきた長州藩士を匿ったそうで、以後は志士達の集合場所になったとの事だ。明治時代になってからは、大久保利通が木戸孝允や板垣退助らと数日間をかけて話し合いが行われた場所でもある。花外楼の隣にあるビルの壁には『三権分立 漸次立憲 合意に至る(大阪会議)』のレリーフがあった。
少し先へ行くと今度は瓢箪屋跡があった。ここは安政2年(1855年)に清河八郎が宿泊した料理旅館だという事だ。東横堀川に架かる葭屋橋の近くにあり、現在はビルになっている。
葭屋橋を渡り、川沿いまで降りて次の説明を聞いた。竹式楼跡である。長岡藩士・河合継之助が宿泊したところで、越後の長岡から備中松山藩の山田方谷を訪ねるため西へと向かい、大坂に到着した際ここに泊まったのだ。現在はどこかの作業所になっているらしく、それらしき車両が止まっていた。
さらに先へ行くと、天神橋が見えてきた。この橋は私が今まで見た橋の中で1番気に入っている橋だ。堂島川と土佐堀川、2つの川に架かるこの橋を渡っている時にふと上を見ると、空がとてつもなく広く見える。いや、実際に空はとても広く大きいものだが、都会に住んでいるとマンションやビルがたくさん建っているためあまり広い印象を受けない。だから、ここから空を見て癒されるのである。夕方に西の空を見ると、大阪湾の方へと沈んでいく夕日がまた格別である。
天満橋には今も“八軒家船着場”という水上バスの乗り場がある。以前の松阪屋裏手の川岸にあり、観光客やデートなどで休日はとても人が多い。しかし、幕末の頃は現在の場所ではなくもう少し西側にずれていたらしい。京都〜大坂までは船で下り、この辺りの船宿で休憩または宿泊した人達は熊野参詣へと出かけるのである。そう、この辺りを起点として熊野街道があったのだ。その碑が建っていて、四天王寺を通り住吉さらに堺へと続く街道の地図が描かれていた。ちなみに、8軒の船宿があった事から“八軒家”の地名が付けられたという事だ。
新撰組の定宿・京屋忠兵衛跡が見えてきた。現在は、私もここで買いたいと思っているチーズ屋さんの辺りがそうである。水帳(検地帳や人別帳を意味するそうだ)に寸法が記されているらしく、テキストの写真には巻き尺で測量しているのがあった。「えっ、ここまでするの!?」と思ったが、もっと驚いたのが歩道に“京屋忠兵衛”と付箋らしきものを貼り付けてあった事だ。参加していた人のほとんどが驚きの声をあげていた。
そして、その隣にあったのが坂本龍馬ゆかりの堺屋源兵衛跡である。京都伏見の寺田屋と提携していたらしく、龍馬が、定宿の寺田屋から船に乗って大坂へ着いて利用したのが堺屋ではないだろうか、との説明を受ける。ここにも、先ほどの京屋跡と一緒で歩道に“堺屋源兵衛”と付箋らしきものが貼り付けてあった。どこまでも追究、という事を忘れてはならないと教えてもらったような気がした。ホント、いかにもこの講師らしいですわ・・・。
永田屋さんという昆布屋の入口に“八軒家船着場の跡”という石碑が建っている。実際にあったのはキャッスルホテル裏手のビル付近なのだが、永田屋さんの御懇意で石碑が建てられたという事だ。船着場には常夜灯があったが、現在は生國魂神社の境内にある。
江戸時代から残っているという階段を上がると、市民の憩いの場という感じの公園があった。北大江公園というらしい。そこの縁石に全員腰をかけながら、講師から『大阪会議』の全容を聞いた。公園前のマンションには江戸時代から明治時代まで三橋楼という料亭があったそうだ。高台にあるため、天神橋・天満橋・京橋の3つの橋を眺望する事ができたので三橋楼(サンキョウロウ)と名付けられたとの事だ。明治6年に、征韓論で敗れた西郷隆盛や江藤新平ら維新の貢献者が政府を去り、木戸孝允も思うところがあって下野する。1人政府に取り残された大久保利通は、このままではせっかくできた新政府の存続が危ういと、下野した木戸や板垣退助を政府へ呼び戻すため大阪へ乗り込んでくるのだ。五代友厚や井上馨らの助力があり、まずこの三橋楼で木戸と大久保が対談する。話は進まず、伊藤博文の宿泊先であった専崎楼で、木戸の宿泊先であった加賀伊でと、何度も話し合った結果明治8年2月11日、加賀伊において和解が成立し条件付きではあるが、木戸・板垣は政府へ復帰する事となった。大阪会議の成功を記念して、木戸自らが筆を取り「花外楼」という書を残したのだ。その後、店の称号も「花外楼」と変更されたという事だ。
天満橋駅の方へと向かい、地下鉄で谷町四丁目へと移動する。と、その前に現在の八軒家船着場まで行き、大川をバックに記念写真を撮る。すぐそばにはカフェがあり、中からお客さんが不思議そうに私達を見ていた。大阪に観光で来たかなり田舎の人達、と思われたに違いない。
谷町四丁目駅を出てすぐのところで舎密局の説明を受ける。明治2年(1869年)、理化学を勉強する場所として公立の学問所が開校されたとの事だ。オランダ語のシェミー(科学を意味する)を当て字としてこの名前が付けられたらしい。明治22年京都に移転し、後に京都大学となったそうだ。
次に向かったのが大村益次郎寓居跡である。漏月庵と名付けられたこの住居から適塾へ通ったという事だ。大村が初めてこの家に入った時、月がとても明るく軒の廂から月が見えてそれをすごく気に入ってそう命名したとの事だ。
そこから歩いてしばらく行くと、大阪商工会議所に着いた。五代友厚や土井通夫らの銅像が建っている。彼らは、大阪商工会議所の会頭を務めているという事だ。
東横堀川に架かる大手橋を渡り、だんだんとオフィス街に入って来た。ちなみに、私が勤めている会社はこの近所だ。幕末期にはこの付近に船宿・河内屋与次兵衛跡がある。京都伏見の日野屋孫兵衛と提携していた船宿で、その日野屋には龍馬も宿泊した事があると手紙に残している。その日野屋から船で大坂に来て、宿泊するとするならばここ河内屋ではないだろうか、と講師は言う。今も昔も、業務提携というのは大事なことだと私は思った。それに、勝海舟が住んでいて尚且つ大坂海軍塾だった専稱寺にも近く、可能性としては大きいなと思う。
堺筋を渡り、少し行くと普通のビルの方を向いて講師の説明があった。そこは、月照の生誕地であるという事だ。清水寺成就院の住職を務めていた月照も生まれは大阪だったのだ。
本町駅の方へと歩き、また新しい史跡みたいだ。と言っても石碑や案内板はない。近藤長次郎の妻であるお徳の実家・大和屋弥七邸が、この辺りにあったと説明を受けた。近藤長次郎とは、みなさんご存じのように龍馬と同じ土佐藩出身で、しかも龍馬の実家とは近いところに住んでいた。その頃は饅頭屋長次郎と呼ばれていたが、後に勝海舟の門下生となり龍馬と共に亀山社中(海援隊の前身)を設立した、龍馬を知る上で重要な人物なのである。しかし、その奥さんの実家って・・・講師のこだわりがまた垣間見えた気がした。
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