長谷 吉治
2000年(平成12年)という年は大阪龍馬会として充実した年ではなかったかと思います。会報は75号〜78号の4誌が順調に発行されました。シリーズ化された連載もの、会員からの投稿原稿が多く、山口ヒロ子さんによる連載シナリオ「愛しておくれ」が5回目(会報77号)で完結しています。ストーリーは、龍馬を失ったお龍の晩年が舞台です。このような良い作品が、このまま埋もれていくのは残念です。再び機会を作って新会員の皆さんにも読んでもらいたいものです。史跡探訪も順調に年4回(4月、6月、10月の3回と恒例11月の墓前祭)実施されました。内容は、「戊辰戦争戦跡をめぐる史跡探訪」「大阪史跡探訪」「鞆の浦史跡探訪」です。また、総会(2月)では当時の龍馬記念館館長である小椋克己先生、龍馬大学校(7月)では、佛教大学教授 青山忠正先生をお招きしての講演でした。両先生とも非常に勉強になるお話でした。
龍馬会での小椋館長の講演は、1998年(平成10年)の総会以来となります。小椋館長は、これからもすばらしい話が聴けると思っていましたが、私にとってはこの時の講演が最後のお姿でした。お亡くなりになったのがとても悔やまれます。私個人的に、この2000年という年は初めてイベント講師を務めさせていただきました。6月4日実施の「大阪史跡探訪 第1回目」で講師デビューを果たした忘れることができない年です。
会報で「大坂の史跡を訪ねて」を1999年より連載することになったのが、大きなきっかけで、イベントをすることになったのですが、その後6回もシリーズ化して、継続していくとは思いもよりませんでした。
大阪は歴史の重要な舞台の地であり、まだまだ知られていない史跡が沢山あるとわかってから、何とかそれを調べて公表したいという気持ちがありました。会報の連載後、さまざまな新発見ができ、自分自身が良い勉強になっています。
6月4日の「大阪史跡探訪第1回目」は『夕陽丘周辺』で37箇所の案内でした。
このイベントで紹介したかったのは、「陸奥宗光の墓所跡」です。石碑や史跡案内説明板で『坂本龍馬』の活字が確認できる大阪府内唯一の場所です。普段は入れない稱念寺境内に在る陸奥宗光最初の妻の墓碑も案内することができました。そのほかは「(英国外交官)アーネスト・サトウ宿泊の地 本覚寺跡」です。この本覚寺には、薩摩藩 小松帯刀や西郷吉之助が訪れています。一番最初の案内地「直木三十五文学碑」は、大阪では珍しく西郷吉之助と大久保一蔵の名が碑に記載されていましたね。何とか天王寺公園内にある池上四郎の銅像の案内を終え、コース終了を迎えたときは本当に安堵したことを覚えています。
今回、原稿を書くのに2000年発行の会報に目を通しましたが、あるひとつの記事に注目しました。その記事がきっかけで、今後、少し力を入れて調べてみたいと思ったからです。それは会報第76号(2000年5月13日)、三輪ひとみさんによる「吉田松陰と泉南市」です。
当時、私も泉南〜岬町地域の史跡を調べていて、土浦藩の飛び地領である岬町周辺の史跡を調べに何度も足を運びました。
このときの最大の収穫は、勝海舟が宿泊した「戸口仙蔵宅」の発見でした。(詳細は「会報第77号 P9」を参照ください。)
吉田松陰の訪問先である山田家なども、一度は行かなければと思っていましたが、行けずに今日に至ってしまいました。近いうちに取材しようと思っています。
大阪市内の史跡もそろそろネタが尽きようとしてきましたので、本格的にこの地域を調べ、会報で紹介させていただきます。
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