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2006年 イベント報告
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講演内容は、話の枕にルイヴィトンを初めて買った人、@龍馬と京都国立博物館そして担当者としての私、A重要文化財指定と夏の特別陳列、B展覧会の成り立ちと企画、C準備のために各地を飛び回る、D章立てと作品の配置に苦しむ、E図録を作る、F展示作業のあれこれ、G御子孫たち−井口家・三吉家・伊藤家・弘松家−、H井口家アルバムと「お竜」写真問題、I龍馬の手紙の面白さ−池内蔵太家族宛書簡、とテーマ別にお話下さいました。
二次会はご存じ「たい坊」にて宮川さんを囲んで、楽しいひとときを過ごしました。
宮川さん、長時間の講演有り難うございました。参加された皆さん、有り難うございました。参加された方はいいお話し聞けましたね。
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本日の講師 宮川禎一氏
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当日参加された方のアンケート 講演会の感想
- とても楽しかったです。「龍馬展」をするために大変なご苦労があったことを知りました。昨年「龍馬の翔けた時代」を見に行って半日かかって見たことを思い出します。ありがとうございました。
- 裏話を聞いたことがなかったので、面白かったです。お竜さんの写真の話も?のままですが、楽しかったです。
- 展覧会をするにあたり、大変な労力をなさっていることが分かりました。全国の大小ある博物館も同じなのでしょうね。子孫の話を面白く聞きました。お竜さんの写真の話は興味津々でした。
- 軽妙な語り口でなかなかおもしろかったです。普通私達は展示されている物を熱心に見て感心しますが、そこにいくまでの大変さなどはあまり考えたこともありませんでしたが、今日は色々お話を聞いて準備の大変さもよくわかりました。
- 裏話や雑学的な話は耳に馴染みやすくて良かったです。
- 展示の裏話など楽しかった。雑談が楽しい先生ですね。何回か幕末の龍馬さん関係の展示を見に、京博に行っているけど、先生のお話を聞いて京博が身近に感じました。
- とても楽しいお話しでした。展示物を集めることがそんなに地道で大変な作業だと初めて知りました。これから展覧会を見るときは、いろいろと細かい部分にも気をつけて見るようにしたいと思いました。
- とても楽しかったです。元々専門外の分野にもかかわらず、さすがによく調べられているなと思いました。またお話を聞きたいです。
- 「長井長義日記」や中井弘についての話が興味深かった。非常に沢山の知識がある方で感服しました。
- 裏話やうわさ話ってほんとにおもしろいですね。
- 先生はトリビアじゃないけど・・・とおっしゃってましたが、私にとってはへ−えの連続でした。京博での展覧会をすべて担当される重圧はいかほどか・・・。素晴らしいお仕事だけどその大変さがよく伝わってきました。また、池内蔵太家族宛の龍馬書簡を愛情もって読んで下さった姿が印象的でした。
- 高松太郎の写真は龍馬とのDNAを感じました。
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4月16日、劇団潮流の稽古場で行われ懇親会に参加させていただきました。どのイベントも和気藹々の雰囲気ですが、今回は一層にリラックスした雑談会のようでとても楽しかったです。(お菓子&お茶がよかったのかしら・あの唄で有名な茜丸ごちそうさまでした。おいしかったです。)
3つのテーマからの慶応3年7月イギリス船イカルス号事件以降からの龍馬と佐佐木高行との交わり(7-9月)の話には、ユーモアたっぷりで面白かったです。土佐藩に受け入れられなかった龍馬が、心を許せた人物としての思いが伝わりました。何日も語り明かしたのは事件を含め、どんな内容の話だったのか? 知りうるものであれば知りたいものです。テーマの説明がとても可笑しく、二人の楽しい数日の場が想像できました。
おりょうの気性の激しい話には、あの当時の女性としては、なるほどすごい気の強さと感心し、また龍馬の死後のおりょうの不遇には、龍馬の妻だったという誇りを持ちつつも、生涯寂しい人だったのだなあと、おりょうの孤独を思いました。
孤独といえば、龍馬も河田小龍と出逢ってココロにインプットされた世界の情勢が龍馬を変え、その思いが周りから理解されず脱藩。龍馬の手紙からも家族には心配かけまいとの思いから愉快に書き留めて、しかし三吉慎蔵や望月清平に宛てた手紙には愚痴とか、龍馬の功績があっても、土佐藩に受け入れられない嘆きの様子、身の危険を書き記したものである。
小龍から教えを受けたものが、勝海舟との出逢いで、くさびがピシッとハマって・・・。勝の足となって・・・パシリという言葉にも・・・生きて死して、龍馬は利用されているのかと。。。龍馬の孤独の苦しみを思うと、ちょっと話を聞きながら胸が痛くなりました。
最後のテーマは暗殺のことでした。やはり一番心高鳴る話でした。暗殺をしたのは誰なのか。黒幕は誰なのか。には諸説あり、読む人、聞く人がどんな風に感じ、その人なりの考えがありましょうが、今回の暗殺説には頭の中のもつれた糸がほどけてゆくような思いでした。一度ならず何度でも聞きたいと思うほど説が面白い解説でした。(薩摩藩と見廻組説)興味が膨らみます。出来れば活字にして欲しいです。大阪龍馬会での聞く話のすべてを活字で残して欲しいものです。(近江屋の間取りや床の間の襖との兼ね合いの話にも妙に納得)
事務局長の流暢な説明と豊富な知識に引き込まれて、時間の過ぎゆくのもトイレタイムも忘れて聞きました。
あいの手を入れる幹事の方の説明も深いです。ありがとうございました。感謝です。
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まさに五月晴れの5月21日に神戸史跡探訪に参加しました。関東在住の私は2003年10月の油小路以来のイベント参加で、数日前から本当に楽しみでした。しかも、関西で車に乗って外出する事などめったに体験できないので(免許がない・・・)、興奮の連続です。
さて、テキストを見てびっくり!!なんと、見学予定地が50ヶ所以上ある・・・。これを1日で実行してしまうのだろうか。たくさん見学しましたが、全てを分かりやすく短文にまとめる自信がないので、印象に残った4つの史跡について書きたいと思います。
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@岩倉具視邸がある西宮神社
岩倉邸の名称は「六英堂」といい、当時は東京・丸の内の馬場先門にあったそうで、明治6年の政変当時は木戸孝允・大久保利通・伊藤博文が訪れ密議を行っていたとか。明治16年6月、岩倉が病のため床に臥せっていたところ明治天皇・皇后両陛下が「六英堂」を訪れています。
会報99号に掲載されている、明治天皇と岩倉の姿を描いた舞台はこの「六英堂」だったのです。この絵画は私も何度か本で見た事があったのですが、本物の舞台(?)を見る事ができて何ともいえない感動でした。この絵画は東京の神宮球場近くにある聖徳記念絵画館にも飾られています。絵画館発行の「壁画解説」によると、絵画のタイトルは『岩倉邸行幸』、時は明治16年(1883)7月19日、画家は北蓮蔵となっています。「六英堂」のこの部屋を見た1週間後に、絵画館へ行き壁画を見たのですが、やはり絵に描かれている部屋を実際に見ていたので、他の壁画とは一味違う見方ができました。
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A東郷平八郎寓居跡
東郷井という碑が建っており、東郷が朝夕使用したという井戸があったそうです。明治18年(1885)7月、神戸の小野浜で軍艦「大和」(初代)を建造中、当時海軍中佐だった東郷は監督官として神戸に派遣されたため、約1年間こちらに滞在していたとか。10年前に日露戦争を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み、東郷に興味を持ったのでこの寓居跡は楽しみにしていました。
この1ヶ月後、神奈川県横須賀市にある戦艦「三笠」を見に行き東郷の銅像も見ました。とても風格のある銅像を見ながら「神戸ではどんな風に生活していたのかな?」なんて想像もしてみました。
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B伊藤博文寓居跡
初代・兵庫県知事時代の住まいがあった所で、慶応4年(1868)から明治2年(1869)までの2年間住んでいたそうです。
知事になった時はまだ27歳という若さ、周囲の人々の視線は厳しかったでしょう。わずか2年間の滞在中にも、伊藤はかなりの“豪遊ぶり”を発揮していたようです。
伊藤が兵庫を去った後は、寓居跡地で妹さんが「吟松亭」という料亭を始めたそうです。その料亭は昭和まで存続していましたが、戦災のために焼失し復興はされていないという事です。今はマンションが建っていて面影のかけらもありません。
横浜市金沢区に「元・伊藤博文別荘」があります。非公開で鍵がかかっているので中には入れませんが、外観は見る事ができます。茅葺屋根風の“昔の日本家屋”という感じです。目の前には海が広がり、とてもリラックスできるんだろうなと思います。大日本帝国憲法を作成したのも海がある神奈川県横須賀市ですし、伊藤は海に近い所に住む機会が多かったという印象を受けました。
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C勝海舟寓居跡
ここは、海軍操練所を作る事になり勝が神戸に住むのに自邸を持つ事になったため、邸ができるまでの仮住まい(?)として住んだのが、神戸村庄屋の生島四郎太夫の別邸だそうです。門と庭は残っていますが、建物は昭和13年の水害で流されてしまったため今は空き地となっています。
東京・赤坂の勝邸跡へも行った事がありますが、今は老人ホームになっていて当時の面影は何もありません。でもこの寓居跡は、建物はないものの庭が残っています。小じんまりとしたかわいいお庭です。勝はこの庭で何をしたのだろう、何を考えていたのだろうと思うと少し勝が近くなった気がしました。
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今回たくさん見学しましたが、やはり関西は歴史を動かしていた場所だけあって史跡の数の多さにびっくりしました。関東にもたくさんありますが関西には及びません。とりあえず行ける所から、少しずつ史跡巡りをしたい!と思ったイベントでした。
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左の二枚の写真は、同じ場所で撮影されたものです。右は、岩倉具視を見舞う明治天皇の絵画です。
左はそれを再現しています。
この場所こそ、「六英堂」です。場所は東京から西宮に移りましたが、まさしくこの建物で会った出来事です。
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まずは、龍馬年表から紹介し、船中八策、新政府綱領八策、国是七条を見比べながら、横井小楠の影響を多々受けた龍馬の考えを皆さんで考えました。
木戸から龍馬宛書簡の慶応2年1月23日 薩長同盟裏書依頼の手紙を紹介。あまりにも有名な龍馬の裏書き。鮮やかな朱墨で、簡潔に書かれていますよね。でも、なかなか表面、すなわち木戸の書簡はじっくり読んだことがなかったでしょう。今回はじっくりと木戸書簡を読みました。すると裏書きしてねとお願いする文面が三カ所あり、念には念を入れた木戸の性格が現れていますね。それにくらべて龍馬の裏書きは簡潔で素晴らしいと思いました。
次に龍馬から木戸宛書簡の慶応2年2月6日、寺田屋事件の報告の手紙を紹介。木戸から龍馬宛書簡の慶応2年2月22日、薩長同盟裏書きありがとうの手紙、木戸から龍馬宛書簡の慶應3年9月4日、芝居にたとえて、暗に武力討幕を促す手紙、その返書になる龍馬より木戸宛書簡の慶応3年9月20日、話せば考えは同じ などの書簡を紹介しました。
約2時間半ほどありましたが、中身の濃いそしておもしろい講演会になりました。ご参加下さった皆さん有り難うございました。
- 桂小五郎の手紙を解説していただき、手紙にはその人らしさが出ますね。興味深いお話、ありがとうございました。
- お話しについていくのが精一杯でしたが、楽しいひとときを過ごさせていただきました。ありがとうございました。
- 楽しい時間を有り難うございました。木戸孝允と龍馬の手紙のやりとりで、本文を訳された内容を、更に噛み砕いた説明は大変面白く、笑いも出るほど愉快な話しぶりに大満足させて頂きました。手紙には書いた人物の人格や性質がうかがい知ることが出来ると申しますが、まさに今日の講義での木戸孝允と龍馬は対照的で、そのことがよくわかりました。講演や秘話が飛び交うお楽しみな時間は早く過ぎ去るものだと参加する度に思います。小椋先生も目を細めてお聞きになられたことでしょう。
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今回の初回を切る史跡は、「中條右京・長曾我部太七朗の墓」
この4日間をポイントに追っていくと、4日目にあたる10月14日。義挙に失敗し、篭城していた妙見山本陣から下山してきたところを百姓たちに銃撃され、この二人の志士が戦死した場所だそうです。今もひっそりと墓石があるような印象ですが、当時は墓石代わりに小石が置かれていただけだったそうです。
「延応寺」沢宣嘉一行が10月11日立ち寄ったというお寺です。樹齢1000年という大きなケヤキの木が印象的でした。樹齢1000年だったらば、もちろんこの日の一行の様子も見ているはずで・・そう考えると何も語らないけど、樹木ってすごいなぁと思います。
次に訪れたのは「生野義挙跡碑」川上弥一(南八郎)らによって占拠された10月12日、たった一日の本陣となった生野代官所跡付近に立っていました。代官所を占拠しても、自重か決起かに軍議が分かれていたらしく・・・それでは、うまくいくわけもないですよね。というより、もともと無理のある義挙だったと思うので、双方の気持ちもわかるように思います。
「生野書院」大正期の材木商の邸宅を改修したそうでなかなか趣のある資料館でした。生野代官所の松や平野國臣の横笛などを閲覧しました。
「生野銀山」ここで昼食。せっかく来たからにはと思って入った生野銀山。中は寒いくらいの涼しさで冷房効果満点でした。
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生野銀山のすぐ近くにあった「山田顕善終焉の地碑」長州藩士で川上弥一らの自決した山口護国神社を訪れた帰りに寄った生野銀山でなぞの死を遂げたらしい。明治維新後も何かと活躍されたようですが、最期はあっけなかったんですね。
「掛屋」「井筒屋」掛屋はいわば両替商で、生野の場合は銀山の銀の両替も行っていたそうですが、生野義挙の後、郷宿だけでは足らずここに宿泊した役人もいたそうです。井筒屋は代官所公認の宿で郷宿と呼ばれる宿だったそうです。平野國臣の神武必勝論の展示等々もあり、懐かしのテレビもあり(関係ないけど)面白い資料館でした。
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いよいよ目玉の「山口護国神社・山伏岩」へ! この神社は自決した志士たちを祀った神社だそうです。なんといっても山伏岩。前にどんと構える大きな石ですが、南八郎(川上弥一の変名)ら13人の志士たちが降りてきたところ、農兵たちと対峙。そもそも生野義挙は農兵組み立てし始まったはずの義挙なのに・・相手は所詮農民?立場を恐れて「昨日の友は今日の敵」と変身してしまったのです。志士たちはその農兵たちに追われる立場になってしまいます。
そんななか農兵たちと直面し、「お前らに負けてたまるか!」と見事な迫力でもって武士らしく自ら13人が自刃したという岩です。4日間の最後10月14日の出来事です。ここで亡くなったのは13名なのですが、別の地で亡くなった4名もともに山伏岩の後ろに埋められ「正義十七士の碑」が立てられています。そこに志士たちが眠っていると考えると妙にゾクゾクするのは私だけ??
10月13日生野代官所を出た南八郎らが一時陣を構え、彼の下僕が捕らえられたという「西念寺」
農兵組み立て運動に奔走し義挙失敗後自刃した中島太郎兵衛と弟黒田興一郎の顕彰碑を後にして
そして2つ目の目玉の「青渓書院」池田草庵が開いた私塾の跡です。ここに残っているのがなんでもない厠の木の扉。普通に見過ごせばそれまでですが、黒いろうそくの跡がたくさんついています。これは何かと言うと、塾生たちが夜な夜な勉強していてお手洗いを使用したときに使っていたろうそくの跡。今でも残っているなんてすばらしい!
またまた当時から残るものに思いを馳せる私ですが、でもね〜、やっぱいろいろ想像しちゃうでしょ?
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話は義挙に戻りまして、10月13日南八郎らの説得をあきらめて沢卿らの生野脱出を進めたという「多田弥太郎顕彰碑」を後に、生野義挙といえばまず思い出す志士「平野國臣捕縛の地碑」へ。
民家の間にひっそり立っている碑なのですが、隣に住むご主人が私たちをみて嬉しそうに話しかけてきてくれました。いつも思うんだけれど、田舎の人ってフレンドリーですね。バカにしてるわけじゃなくてこういうのいいなぁ、と思います。街中じゃ、こんな風に訪ねてきた人に親しみを持って声かける人いないもんねぇ。
さて、次に向かったのは義父神社。農兵組み立て会議の第一回目が行われたという普賢寺はこの神社の別当所になっています。そしてまたお相撲をやっていたという土俵のあとがあります。平野國臣らも倒幕に向けて燃える最中、相撲をみてつかの間の休息を楽しんだようです。
話はそれますが、義父西念寺。ここにはあの逃げの桂小五郎の潜伏地碑があります。いやはや・・この方は本当すごいと思う。執念深く逃走して明治後も生き残ったわけですから・・・義挙を起こして武士の潔さをみせることもすごいんですが、最後まであきらめずに逃げた彼もまたすごい!と思うのです。
今回のイベント最後の史跡は「大川藤蔵殉難の地」この人も南八郎ら少壮派に今回はあきらめて再建を説得した一人らしいのですが・・説得は通じずあきらめた一人で、同郷の川又左一郎らと下山したところ農民に囲まれ切腹したそうです。その碑に訪れたわけですが、こんな場所にあるのによく見つけたなぁ〜と感動するようなわかりにくい場所にありました。いやはや・・やっぱり大阪龍馬会、おそるべし!
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そんなこんなで、我が属する大阪龍馬会はやっぱり楽しいところ!という結論を書こうかというところで、今回の生野義挙レポート締めくくりたいと思います。
途中、ささっとはしったところもありましたが、どうかご了承のほど・・・
そして最後に、ほんの4日間の義挙をわかりやすくポイントを押さえて講師をしてくださった北浦さん、遅くなりましたがありがとうございました。
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本日の講師は龍馬会のご意見番小川さん。まずは枚方宿の概要を案内いただき、一行は駅近くの割烹へ。今回のイベントも凝った趣向で、ここで豪華なお弁当をいただきました。でもビールや日本酒まで交わされている‥。天王山、登れるの?大丈夫‥?この時ふと思ったのですが、なんだか久しぶりに親戚一同が集まっているみたい。そんなアットホームな賑わいのなかイベントはスタートしました。
午後から現在資料館となっている「鍵屋」さんへ。江戸時代、東海道の宿場町として栄えた枚方宿。なかでもひときわ目立って大きな船宿がこの鍵屋だったそうです。主屋は19世紀初期の建築で、当時の船宿の様式を伝える貴重な遺構として市指定文化財に指定されたそうです。別棟での資料見学のあと主屋へ。小川さんはぜひこの土間をゆっくり見学してほしいとのこと。天井が高くて風通しがいい、広くてゆったりとした構え、おおきな釜戸が寒い冬の時も旅人を暖かく迎えたそうだ。しばらく腰を下ろし、暖簾越しに旧街道を眺めていると、今しがた三十石船から降りてきた旅人がぞくぞくとやってきそうでした。ゆれる暖簾には蔵の鍵をモチーフにした紋が染められていました。商売繁盛の意味があるそうです。この日鍵屋さんでは野点のイベントがあり着物姿の女性がおおく華やかでした。また普段なら予約すると二階の大広間で食事もいただけるそうです。
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枚方宿をあとにし大山崎・天王山へ。まずは「離宮八幡」へ向かいました。ここで文久三年の「八・一八の政変」から翌年の「禁門の変」までの経緯をお話いただきました。元治元年6月、武装上京した長州藩軍。先発隊の福原越後隊は伏見の長州藩邸、国司信濃隊は嵯峨天龍寺に布陣。ここ離宮八幡には真木和泉隊(長州家老・益田右衛門助、久坂玄瑞ら)600名が陣を構えたそうです。ここ天王山を要に扇のように京の町を囲む布陣は真木和泉によるもの。八・一八の政変後、長州藩へ逃れた久留米藩神官の真木和泉は王政復古の機会を失うと危惧し、長州藩の京都出兵を促した。この大挙上京も彼の草案通りだったそうです。敗れた後「今回の計画実行はすべて自分にあると」引き止める同士を振り切り、天王山山頂に籠もり陣を敷くことになったそうです。結果敗れた長州軍ですが、目的はあくまで長州藩の京都政局の復帰、武装蜂起に慎重で、上京当初はまず近くに布陣していた郡山藩の番所へわざわざ挨拶にも出かけたそうです。すると郡山藩からは陣中見舞いとして漬物三樽が贈られてきた、長州勢も型通りに伊丹の酒三樽を返礼したそう。郡山藩内には長州に同情する者も多かったそうで、これから起こる「禁門の変」を前にして、なんだか微笑ましいエピソードもお話いただきました。
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つづいて「宝積寺」へ。急な坂の上にお寺が見える。ここまで登ってくるだけで、ふ〜。三重塔の前で小休憩。真木軍はさきの離宮八幡を本陣、ここを中宮としたそうです。いま山頂に眠る17名が最初に葬られたのはここ三重塔の前だったそうです。大きな「殉国十七士墓」の碑が建っていました。東吉野村の天誅組もそうですが、彼らも「残念さん」とよばれ香花が絶えることがなかったそうですが、幕府はこれを嫌い遺骸を竹林に埋め直し参拝を禁じたそうです。慶応4年になって現在地に再び改葬されたそうです。また幕府側の会津藩、新選組、見廻組による真木軍追討軍が拠点としたのもこの宝積寺だったそう。新選組からは、土方、原田、藤堂、井上らが山下の通りを固め。近藤、永倉、斎藤らがここから山頂へ攻めあがり、掃討戦が始まった。
さぁ、私たちもすこし重い腰をあげ出発。ここで美奈子さんと事務局長ジュニアたっちゃんは山頂までのハイクは難しいとのことで残念。無事に帰還しますから、待っててくださいね。
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竹林の山道を歩きはじめる。「大丈夫だろうか?」と皆さんの顔が自然と笑っている。それぞれのペースでゆっくり登りました。山頂もすぐの場所に「山崎合戦之地碑」が建っていました。この碑の周りに皆どっと腰を下ろす。風が吹いて気持ちいい。近くに展望台もあり、秀吉軍と明智光秀軍の合戦の様子を見渡すことができる。秀吉はここに陣取り松の木に瓢箪の旗をかかげ見方の土気を鼓舞したそうです。
一行は小川さんにやさしく鼓舞され、ふたたび重い腰をあげ十七烈士の墓所へ向かいました。真木軍は新選組ら追討軍を迎え撃ち、やがて鉄砲の弾がなくなると攻撃をやめ後退。追討軍側にはほとんど銃装備がなかったそうで、この間は真木軍の様子を伺うかたちだったそうです。すでに死を覚悟していた十七名は陣小屋に籠もり火薬を仕掛けて自刃。すさまじい爆音に追討軍が駆けつけると、まだ火がくすぶる小屋の中に遺体が並んでおり、その潔い最期にみな感服し、死に切れないでいる者を新選組が介錯した話も伝わるそうです。わざわざ火薬を仕掛けたのは敵に首を取られないための配慮だったそう。その火薬も用意して彼らは天王山に籠もった。
墓所は「烈士墓標」の大きな石碑があり、それを取り囲むように各人の墓碑が整然と並び、真木和泉はじめ、久留米、熊本、福岡、宇都宮、土佐藩士らの名前が刻まれていました。
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山崎城跡でまたしばらく休憩。古城跡の名残を散策する方やもぅべったりそこらの石に腰をおろす方。思い思いに過ごす、私は後者‥でもこの石もお城の名残なのだろうな。公園ほどのスペースの更地になっている。山崎の合戦後、大阪城築城まで秀吉の居城だったそうだ。幕末・戦国の史跡を訪ね気持ちも体力もいっぱいになっていたのですが、自由に舞う山頂の風に吹かれていると、なんだか清々しい気分になってきました。
さて下山。くだりは足取りも軽やか、語らいながら歩いていると先の人と逸れてしまい、美奈子さんたちの待つ宝積寺と反対の方向へ降りてしまいました。ご心配お掛けしました。無事合流し一行は二次の懇親会へ。心配していた天王山ハイクもいい汗をかいた爽快感。ビールがとても美味しかったです。事務局長も駆けつけ、いつもながらワイワイ賑やかな時間。
講師の小川さん、お疲れさまでした。レポートするのに改めてテキストを読ませていただいていると、事の流れが分かり易い冷静な説明文。毎回思うのですがテキストも講師の個性が溢れた味のあるものですね。大切にします。ありがとうございました。
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その日の朝、私はとてつもなく急いでいた。阪急電車梅田駅・9時45分、改札を通り京都線ホームに上がる。まもなく特急電車の発車時刻だ。河原町駅到着は何時かな?大体10時半ぐらいやろうなぁ・・・。と、集合時間にはまず間に合わない事を悟った。あぁ、どこで事務局長にTELしよう・・・。
こんなスタートだった今年の墓前祭は、天気予報で雨が降る事が確実な事を知って、憂鬱さを感じながら自宅を出た。電車に乗れば京都へ遊びに行く人達でいっぱいだし、四条通は京都観光を楽しんでいる人達が私をなかなか先へ行かせてくれない。八坂神社に着くと、結婚式と七五三で境内はまたも人であふれんばかりだった。ここから清水寺辺りまではいつも観光客でいっぱいだ。高台寺門前で事務局長へTELをかけた。「いいですよ、ゆっくりおいで。」と優しいお言葉に朝から感じていた心の苛立ちが納まった。
霊山の入り口で無事受付を済ませ、ほぼ全員が揃ったところで中へと入った。階段を少し上がると、龍馬・慎太郎・藤吉のお墓があるのは皆さんご存知のとおりだ。お線香を手に持ち交代で墓前に手を合わせる。事務局長Jr.のタッちゃんもきちんとお線香を供えて手を合わせていた。その仕草が何とも愛らしい。今年は霊山内の散策はなしで、すぐ下山した。そして、円山公園の中にある龍馬・慎太郎像前で毎年恒例の記念写真を撮る。
昼食は自由行動となり、みんな思い思いに散っていった。そういえば、墓前祭で途中ランチ休憩があるのなんて私が入会してからは無かったなぁ。
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一乗寺駅から第2部のスタートで、ここから数名が参加した。歩くこと10分あまり、“一乗寺下がり松”に到着した。ここは、宮本武蔵と吉岡一門の決闘の地として有名で、立派な松の木が植わっている。この松は現在4代目だそうだ。
次に向かったのは“金福寺”で、この一乗寺史跡探訪の主役・村山たかが余生を過ごした寺である。庭園の紅葉は全部とまではいかないが結構色づいていた。中に入り、この日の講師・上田副会長から村山たかという人がどういう女性だったか説明を受けた。私だったら、あんまりいろんな男性とお付き合いしないのになぁ・・・と思った。まぁ、あの時代でしかも生きていくためにはそれも致し方なかったのかもしれない。
本堂の中は井伊直弼や長野主膳の資料が展示されていた。庭園の脇にある道を上って行くと村山たかの参り墓がある。本当のお墓はすぐ近くの圓光寺にあるが、金福寺でも菩提を弔うため本墓の土を持ってきてこのお墓に埋め参り墓としたのだ。
住宅街を抜けて次に向かったのが“詩仙堂”である。中には入らなかったが道路脇にある石碑の説明を受けた。そこには“石川丈山旧跡”とあった。石川丈山とは江戸時代初期の詩人であるが、その丈山が晩年を過ごしたのがここである。
詩仙堂の横の道を入ると古い映画のポスターなどが掲示してあった。いずれも宮本武蔵の映画である。なぜここに掲げているのだろう?少し上がると“八大神社”があった。ここには初代・一乗寺下がり松の古株が展示されている。だから、下に宮本武蔵関連の物があったのだ。その古株は武蔵と吉岡一門の決闘をずっと見ていたのだから・・・。
そこから歩くこと5分ほどで到着したのが“圓光寺”だ。ここには村山たかの本墓がある。お墓参りの前に、中に入りしばし庭園を観賞する。ここの紅葉も、ところどころは紅くなっているのだがまだ早いという感じだ(この日から1週間後の11月末頃が今年の見頃だったそうだ)。この時期だけ夜間にライトアップをしているそうだが、今度は夜に来てみたいと思った。そして、村山たかのお墓参りだが、午前中の龍馬たち同様お線香を供えて墓前に手を合わせた。このお寺には家康を祀る東照宮もあるのでそちらへも足を運ぶ。
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閑静な住宅街を歩くと“葉山馬頭観世音”の石碑を発見する。もう少し上ると梅田雲浜の名前が入った石碑もあるのだが今回はそこまで行かなかった。ちなみに、ここは福井・小浜の出身・梅田雲浜の隠れ住んだ所だ。私は5月に来ているので、まぁ見なくても分かるし写真も撮ってある。雨もかなり降っているし、足場の悪い場所だったから上がるのはやめた方がいいだろう。
最後は“忠成公隠棲の地”だった。忠成公とは三条実美のお父さん・三条実万の事である。なんでも、安政の大獄で謹慎処分となりこの辺りに住んでいたらしい。息子の実美は何度も聞く名前だがお父さんは知らないなぁ・・・と思った。9月に京都御所の東に位置する梨木神社へ行ってきたが、確か三条実万・実美親子が祭神ではなかっただろうか。それぐらいの知識しかなかった。
11月中頃にしては結構寒かった今年の墓前祭だが、一乗寺の史跡探索はすごく満足した(お天気が良かったらさらにいいのに)。また、この界隈にはなんと道標が多い事か。テキストにも写真がいくつも載っているのだが、やはり比叡山が近いからなのだろうか。いったい、いつからそれらの道標はあるのだろうか。とても歴史ある町のように思った。5月に来たときに「またここへ来たいなぁ。」と思っていたから、今回来ることができて本当に良かった。やはり、一乗寺は私を癒してくれる町であった。
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