2005年11月20日。大阪龍馬会恒例の墓前祭が開催されました。
今年の参加者は17名といつもよりすこし少なかったようですが、とてもなごやかな雰囲気で、小春日和のなか京都東山界隈の史跡を案内いただきました。
午後1時に霊山護国神社に集合。講師林さんのご挨拶の後、もちろんまずは龍馬、慎太郎、藤吉のお墓を参りました。お線香をいただきそれぞれ墓前に手を合わせました。紅葉にはすこし早かったのですが、いつの季節もここからの眺めは美しい。みなさんの表情がやさしくてとくになにかお話するでもないのに、ここに来るといつも微笑みあっていますよね。やっぱりここは特別な場所だなと感じました。今日は大阪龍馬会には稀な歩かないイベントだそうで、巡る史跡もいつもより少なめだそうです。でもその分ひとつの場所に時間を持つことができて、こんなイベントスケジュールもいいなと思いました。
さてそれでもそうゆっくりとは出来ません、やっぱり龍馬会のイベントです。霊山の墓碑と人物を案内いただきました。さすがベテラン講師の林さん、墓碑の前に立つと自然とお話が流れるようです。土佐藩や長州藩の墓地にはじまり、天誅組の墓地、その三総裁のひとり吉村虎太郎の墓。‥梁川星巌、所郁太郎‥‥等。あげればきりがないのですが、そのなか村井政礼の墓前でのお話は印象的でした。尾張出身の廷臣で三条実美、姉公路公持らとも親しかった人物だったそうです。8.18の政変時に幕府を非難した罪で六角獄舎へ送られることに。同じころ奈良の五条で決起した天誅組浪士、それに続いた生野挙兵の首謀者である平野国臣らもぞくぞく捕縛され同獄舎へつながれました。村井は六角獄舎での獄中記『縲史』というのを残しているそうで、彼らが処刑された時の様子も記されているそうです。
≪予、時に上舎に在り。刑壇とする相去ること数間、人ごとに刑せらるるに臨み、声高にて予を喚して決別す。且罵り、且つ斬たるる者あり。初め将に刑せられるとする時、天色俄に黒く雨降り雷鳴る。惣ちにして刑終るに至るころ、即ちまた霽る。予親しく之を見て甚だ怪しむ≫
浪士ら処刑者は村井へ決別の言葉を叫び受容していったという‥。『縲史』は当時の政情を知るうえでも貴重な資料なのだそうですが、林さんは「こうして私達が興味を持った人物の最期の様子、生の人間像を知ることができる、この村井さんもそうですが、手紙や日記など残してくれた事は、本当に尊いものですよね‥。」改めて、そうだなぁと村井さんの墓前にて感謝‥。「‥ので、皆さんも、ご自身の日記なども尊いものになるようにですね〜〜」これには一同苦笑い。村井政礼はその後も獄中にあり、慶応3年12月12日という動乱のさなかに西刑場にて処刑されたそうです。
前後しますが、平野國臣の墓前にも参りました。「國臣の有名な歌はっ?」一行からすこし離れてアウトローしていた北浦さんに、いきなりふる林講師。
“わが胸の燃ゆる想いにくらぶれば、煙はうすし桜島山”
私の横にいらした栗田さんがちいさな声で一緒に口ずさんでられたのも印象的でした。2006年のイベントでは「生野義挙」も企画されているそうで、これも今から楽しみです。霊山では最後に木戸孝允、松子の墓前へ参りました。
小休憩後、すこし西にくだり当時西本願寺の山荘(貸席)であった「翠紅館跡」(現・京大和)へ。文久3年正月、翠紅館にて各藩を代表する尊攘志士たちの合同決起集会が行われ、その頃から当時「学習院党」とよばれていた志士たちに利用されたそうです。前年の文久2年、津和野藩の新道学者福羽美静らにより、霊山(当時・霊明神社)で嘉永から安政の大獄などの多くの殉難志士の慰霊祭を行ったことから、新しく殉難する尊攘志士の霊も霊山に葬ることが決まり、それ以来霊山は尊攘派の聖地のようになり、霊山にちかいここ「翠紅館」が集会場所に選ばれたのだそうです。また安政の頃には勤皇僧月照が住居としたこともあり梅田雲梅や梁川星巌らも訪れたそうで、以前からも尊攘志士とは縁があったそうです。現在は「翠紅館会議」が行われた茶亭「送陽亭」が保存されているそうで、一同見学したくてうずうず‥。でも見学のみは不可だそうで、今回は残念でした。
通称“ねねの道”を通り北へ、西行庵内にある「吟風弄月軒」へ。外観のみの見学でしたが、ここは久我家に仕えていた春日潜庵が洛西衣笠に建てた別荘の復元だそうです。潜庵は海外事情にも通じ孝明天皇の信任も篤かったそうで、当時の衣笠の「吟風弄月軒」には尊攘派志士たちが続々と押しかけ、その中には西郷、大久保、桂、なども出入りしていたのだそうです。
つづいて「弄月軒」前の坂道を上り「長楽寺」へ向かいました。いつものように観光客で賑わっていた東山ですが、この坂道の参道からいつの間にか静寂のなかへ。創建1200年を迎える古刹の趣は別格でした。長楽寺は水戸藩と有縁であるそうで、その関係から徳川昭訓、原市之進、鵜飼吉左衛門・幸吉父子らのお墓があり、案内いただきました。なかなか急な山道で、受付からもけっこう距離がありました。訪れる人は少ないだろうな‥、墓碑はひっそりと忘れられたようにありましたが、寂しいというより静かな場所でゆっくり眠っているような雰囲気でした。この墓地一帯は「尊攘苑」とよばれているそうで、他に頼山陽、梨影婦人とその子三樹三郎のお墓があり、頼山陽はこの寺を愛したそうで遺言によりここに葬られたそうです。また境内では秋季特別展「足利氏と遊行上人」が開催されていて、こちらもみなさん熱心に鑑賞されていました。
長楽寺の散策を終え、丸山公園の「龍馬・慎太郎像」へ。ここで集合写真を撮り、2005年の墓前祭は無事終了となりました。いつもより終了時間が早かったこともあり、続いての二次会にもほとんどの方が参加されました。この日は大いに盛り上がり、林さんにお話いただいた「いろは丸事件」などなど、どれもとても興味深く面白く、みなさん熱心聞き入っておられました。またこんな場が持てたらいいなと思った懇親会でした。本日の講師林さん、お疲れさまでした。そしてありがとうございました。
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