2004年 イベント報告
総会レポート

 総会は上田敏雄氏を議長に選出し、2003年度活動報告と決算報告を林事務局長より報告し、2004年度活動方針案と予算案を林事務局長から提案があり、質疑応答の後、了承されました。その後、小休憩をはさんで、「西尾秋風追悼イベント」を開催しました。

 最初に西尾秋風氏出演の「龍馬の刺客を追ってドキュメンタリー映像80」毎日放送制作を上映。約1時間のビデオでしたがあっという間に時間が過ぎ、若かりし頃の西尾先生のお姿を拝見しました。

 続いて、白濱忠信氏の講演「淡海槐堂について」は、西尾氏追悼にふさわしいテーマでした。

講師の白濱忠信氏

聞き入る参加者

  • 初めて出席させて頂きましたが、全くの素人ですので知らないことばかりで大変勉強になりました。
  • 西尾先生の後継者として龍馬暗殺について講演を期待します。
  • 「淡海槐堂」について詳しく教えて頂きためになりました。
  • いろいろ研究されているようで楽しく聞かせて頂きました。
  • 昨年3月に西尾先生のご自宅にお参りに伺ったときに、先生が情熱を込められた本や資料を目にしたときに思わず目頭が熱くなりました。その時に奥様が明日白濱氏がこれを継いで下さるのでと話されておられました。それが生きていることをお聴きし、有り難い事だとうれしく思いました。先生が病気されて以来、私の龍馬はピタッと止まっています。現在介護等でなかなか時間がもてないのですが、少しずつでも皆様のお話をお伺いしていきたいと思っています。
  • 私は西尾先生とお会いしたことはないのですが、すごくパワフルな方だとビデオを見て思いました。そして話を聞いて、たくさんの資料を残されているのを見て、マメな方だとも思いましたし情熱を感じました。白濱氏も今後その情熱を受け継がれることを期待しています
  • 「淡海槐堂」についてはほとんど今まで知らなかったのでとても勉強になりました。テキストをしっかり読みます。
  • 西尾先生のことや淡海槐堂について、わかりやすく話をして頂き、大変参考になりました。
  • ありがとうございました。これからも西尾先生の資料を元に私たちに色々と教えて下さい。私が何回もイベントでお会いしている西尾先生よりも思いがけずお若い頃の先生にお会いできて本当になつかしく拝見しました。全編を通じて本当に西尾先生は龍馬が好きだったんだなあと感じました。
  • たいへんわかりやすくお話し頂いてよかったです。
  • とてもよかった。「淡海槐堂」という人は画家だと思っていましたが、全く知らなかった事を色々お話し下さり興味が沸きました。霊山歴史館に見に行こうと思います。
  • 淡海槐堂の話、おもしろく聞かせて頂きました。テキストの作り方は西尾先生とよく似ておりますね。
  • 以前より楽しみにしておりました。研究の域が奥深いので今回は新たな項目を知ることができ大変役立ちました。またお話しを聴かせて頂きたいと思います。
  • 初めて聴くお話しなので興味深く拝聴しました。幕末における淡海槐堂の位置が理解できたような気がしました。ありがとうございます。
  • 「白浜温泉の白濱と覚えて頂くと・・・」と温泉のように温かく癒し系の方かと思いましたが、なかなか鋭い深い説明をなさいます。が物腰は柔らかくやさしいです。凄いパワーの持ち主であられた西尾先生のビデオを拝見し、新鮮な感じを受け魅せられました。直に講演を拝聴できなかったことを残念に思います。漫画家のさいとう・たかを氏が薩摩説を言っていましたが、その時よりも今回は感銘を受けました。
新選組史蹟探訪・壬生編に参加して 〜新選組に近づいた日〜

 大阪龍馬会のイベント新選組史蹟探訪・壬生編の日。前週の大河ドラマ「新選組!」では、タイミングよく壬生に入った頃のことでした。この日、自分の中で新選組に対して見方が大きく変わるとは思ってもみませんでした。

 大宮駅に集合後、最初に向かったのは「六角獄舎跡」。大宮駅より北へ歩くこと約15分。「六角獄舎跡」といったことは書いておらず、ここに牢獄があった形跡は感じられなかった。ここで処刑された「平野國臣外数十名終焉の地」と書かれた石碑が立っていた。景色はすっかり変わっているけれど、ここでは様々な事件に関わった多くの志士たちが刑死または獄死したのだと思うと思わず身震いし、物思いにふけってしまう場所であった。

 六角獄舎より、坊城通を下がり、いよいよ壬生へ・・・。ここで驚いたのは、大河ドラマの影響か?香取くん人気?それとも、新選組ブーム到来?とにかく、かつてこの周辺にこれだけの人が集まっているところを見たことがない、というくらいの賑わいようだった。まず壬生新地跡。当時壬生はかなり町外れで辺鄙なところであっただろうに新地があったのか!ここで、ひとつトリビア、「へぇ〜〜」。 

講師:北浦半次郎氏

講師:小川満也氏

いよいよ前川邸。今回のメインスポットと言えるところである。古高俊太郎が拷問されたあの土蔵に入れる!ということで、この時を心待ちにしていた私。一般公開されていないため、クールな顔して(?)前川邸長屋門をくぐり裏へ抜けると土蔵が二戸建っていた。北向きに一戸、西向きに一戸。拷問のあった土蔵は西向きの土蔵とのこと。半分ずつに分かれて、いよいよ蔵の中へ。入ってすぐに思ったのことは、外の暑い空気が一転、中はひんやり涼しい〜。これは、蔵の特徴なのか、それとも霊気が漂っているのか・・(そんなわけはないですね)。今もまだ使えるという階段下の収納庫や当時もあったという床下収納庫に感動し、いよいよ階段を上るとそこは古高俊太郎が吊り下げられたという現場。現場に立ってみるとやはり拷問現場を想像してしまい、ここに土方歳三たちが立っていた?古高俊太郎がこの縄に吊り下げられていた?と思うと血の気がひく思いがした。ずいぶん気前のいいご当主で床板も「はずしてくださっていいですよ」。「ひぇ〜、そんなん恐いやん〜」と思いながらも、はずしていただくと思わず下を覗き込む。このドキドキ感、ゾクゾク感は何なのか?手に汗にぎるとはこういうことを言うようです。こんな貴重なものを拝見させていただき、写真も撮らせていただき、前川邸の方々には心から感謝いたします。

 光縁寺。ここには山南敬介ら多くの新選組隊士のお墓があった。自分一人ならばお墓参りして終わってしまうところだが、今回は違う!講師の小川さんより、墓碑に書いてある隊士一人一人細かくご教示していただきました。中でも印象的だったのは、松原忠司にまつわる「壬生心中」、隊規を破り妾を作って切腹させられた田内知のお話。そんな人もいたんだ〜、「へぇ〜」。また一つトリビア。

説明はどんな場所でもします。

光縁寺境内

これは肥後藩邸跡付近

 新選組馬小屋跡、肥後藩邸跡を通って、壬生共同墓地へ。ここには、八木家代々のお墓があり、ドラマで登場したばかりの八木為三郎さんのお墓もあった。当時はまだまだ子供だった為三郎さん、いきなりやってきた新選組の面々には驚いただろうなぁ、ましてや芹沢鴨が絶命したとき現場に寝ていたと言うから、生涯忘れられない衝撃的な事件になっただろう、とお墓を前にそんなことを感じた。

 墓地を出てすぐ左手は壬生寺。ここには近藤勇の胸像、芹沢鴨、平山五郎のお墓、野口健司ら7名のお墓、河合耆三郎のお墓があります。先ほどの壬生共同墓地にあったものが移されたとのこと。ここでも講師の北浦さんより墓碑にある一人一人の説明をいただき・・またまた、「へぇ〜〜」。芹沢鴨のお墓は建て直されたとのことですが、当時より本当に小さなお墓だったようで、生前の豪快ぶりに対してあまりにも悲しい最後だな、としんみりしてしまった。

 最後は八木邸。超メジャースポットだけあって、かなりの賑わいようだった。説明してくださったガイド協会のおじいちゃんの熱い語りで、八木邸の内部やお庭、芹沢鴨が最後につまずき絶命したという机などを見せていただき、今回のイベントも終了となりました。その後、一行は二次会会場へ。気温も高い一日でしたが気分も最高潮に熱くなり、盛り上がったことは言うまでもありません。

 今回の新選組史蹟探訪、当時をしのばせる貴重なものを見せていただき、いつもそうですが、今回もたっぷり堪能させていただきました。そして、随所随所にはさまれる講師お二人の新選組隊士の逸話、大変興味深かったです。今までどこか遠く感じていた新選組に親近感がわきました。そしてこの日を機に私は、新選組のことをもう少し知りたくなったのです。あのイベントの後、子母澤寛の新選組3部作、一気に読破してしまいました。これまでほとんど新選組に興味を示さなかった私にとってこれは大きな変化。この意識革命は、4月18日のイベントで起こったとしかいいようがありません。これも講師の小川さん、北浦さんのトリビアなお話のおかげです。

旧前川邸の土蔵

最後は壬生寺境内で記念撮影

『大坂史跡探訪N』に参加して
 2004年の梅雨入り宣言された6月6日。大阪龍馬会恒例の「大坂史跡探訪」のイベントが行なわれました。今年「龍馬会」に入会してからというもの、2月の総会と講演会、4月の「新選組史跡探訪」と、毎度次のイベントが楽しみで待ちどうしくて仕方ありません。今回で第5回目という「大坂史跡探訪に、私もハリキッて??参加してまいりました。

 13:00「谷町九丁目」駅に集合。私が着いた時には、すでに指定の3番出口は龍馬会の皆さんで溢れていました。階段から見上げると「わぁ〜」(なんだかスゴイ、なぜだかスゴイ)講師をされる長谷さん、幹事の小川さんや上田さんの笑顔が見え、美奈子さん、三輪さんが、テキパキと私達参加者のお世話をこなされていました。

 イベントスタート。参加者は37名、講師の長谷さんに皆さんニコニコ笑顔で続きます。まずは「生国魂神社」の鳥居前で集合写真をパチリ。そしてこの日最初に案内していただいたのは神社の目の前、生玉公園内にある「水戸藩士川崎孫次郎 自刃の所」「笠間藩士島男也 旧居跡」でした。1860年3月、桜田門外の変に協調して、水戸藩と薩摩藩を中心に大坂でも挙兵計画があり、ここ島男也宅に水戸藩の志士が協議のために集まっている所を幕吏により取り囲まれたそうです。薩摩藩の裏切りにより失敗した挙兵であったとのこと。この時、水戸藩士の高橋多一郎、庄左衛門父子はいったん四天王寺まで逃れますが、力尽き寺内で自刃。四天王寺まで1.5キロ程の距離で、目と鼻のさきです。

 次は「大寳寺」というお寺で、新選組の宿舎だったそうで、現在は大相撲の「立浪部屋」の大阪場所宿泊所とのこと。続いて「齢延寺」へ。儒学塾、泊園書院を開いた「藤沢東ガイ、藤沢南岳墓」土佐藩刀工 の「左行秀 墓」そして土佐勤王党の「島村寿太郎の墓」をお参りしました。島村寿太郎の墓は残念ながら無縁墓となっていました。その一画の上段にあり、目立って少し大きめの墓石でした。島村寿太郎は維新後に上京中、大坂で42歳で亡くなったとのことです。また無縁墓の中には他にも(「土佐 久徳三七○○」「土藩 稲垣○○」)という土佐藩士のお墓があり、定かではありませんが住吉陣屋に務めていた方ではないか?とのお話でした。

 齢延寺の前は「源聖寺坂」という坂道で、天王寺七坂のひとつだそうです。他に「口縄坂」は司馬遼太郎の「燃えよ剣」にも登場するそうのだそうです。またこの辺りに寺院が多いのは、元和元年(1615)大阪城主になった松平忠明が市街地整理のため、市中に散在していた寺院や墓地を現在の北区とこの谷町9丁目周辺に集め、城の南北の守りを固めたのだそうです。上町台地の説明を受けながら、趣のある源聖寺坂を下り次の史跡へ向かいました。これから案内していただく史跡もほとんどがお寺です。

 続いてはまた新選組ゆかりの地で、大坂屯所跡の「萬福寺」。慶応元年5月26日、勤王派の儒学者の藤井藍田を捕らえ、この萬福寺の納屋で非情な拷問をかけたのだそうです。容疑は統幕の密議を行なったためだそうですが、大坂屯所の新選組の功績を挙げたいがためだったという説もあるそうです。本堂とその納屋は火災で焼失し本堂は再建されたそうですが、そんな非道な事が起ったことが想像もつかない、もちろんごく普通のお寺でした。

真剣に講師の話に耳を傾ける参加者

生国魂神社で記念撮影

 「浄国寺」には夕霧太夫のお墓が建てられているとのこと。「正法寺」は慶応3年7月に英国駐日公使ハリ−・パークスが、当時海援隊士が疑われていた「イルカス号事件」の協議を幕府と行なうため来坂し宿泊したお寺だそうです。そして正法寺からすぐの四つ角に大きなマンションが建っていました。

 ここはア−ネスト・サトウが宿泊した「本覚寺」跡だそうで、ここでサトウは薩摩藩の西郷吉之助、小松帯刀らと面会していたそうです。本覚寺を北へ「久成寺」は高砂部屋大阪場所宿泊所とのこと。講師の長谷さんは大相撲ファンなのでしょうか?続いての「法雲寺」はまたア−ネスト・サトウの5度目の来坂時の宿泊所だそうです。

 蘭医ボードウィン寓居跡の「法性寺」では、ボードウィンの遺品が残されており砂糖坪などを実際に見せていただきました。明治2年(1869)大阪仮病院の開設された時、ボードウィンは教師として招かれここ法性寺を寓居としたそうです。ボードウィンの身の回りの世話を任されたのは、法性寺の檀家である豪商薩摩屋半兵衛という方で、以前から緒方洪庵を通じボードウィンと親しかったそうです。またこの法性寺は「龍馬が新選組に狙われ潜伏した」というお話も伝わっているのだそう。まだ断定は出来ないそうですが、可能性は低くもないとのことでした。

 ここで小休憩。実はこの日は不思議な天候でカンカン照りかと思えば、急に大粒の雨、そしてまた晴れと忙しいお天気で、まだ大して歩いていないのですが(実際この時点で予定の1/4でした)暑さにエネルギーを吸い取られて、皆さんちょっとフラフラ。私も少しユラユラ。

 法性寺で礼をいい出発。すこし北にある「福泉寺」へ、赤穂義士の堀部弥兵衛、安兵衛父子のお墓をお参りしました。やはり皆さん、赤穂浪士のお話もお好きなようで「おっ、堀部安兵衛かっ」とあちこちで赤穂浪士談義。それから西へ現在は中央小学校の建つ「土浦藩蔵屋敷跡」碑から、松屋町筋の「ぜんざい屋事件」の地へ向かいました。元治2年正月8日、「石蔵屋」(ぜんざい屋)をアジトとしていた大利鼎吉らが新選組に襲撃された場所です。碑には鼎吉が前日詠んだという「ちりよりもかろき身なれど こころばかりはけふ報ゆなり」が辞世の句となり刻まれていました。

 続いては堀江周辺の史跡へ、地下鉄「松屋町駅」から「桜川駅」へ移動しました。駅から北へ、まずは南堀江公園内の「勧進相撲興行の地」。そしてそのお隣の堀江中学校は「紀州藩蔵屋敷」だったそうです。紀州藩といえば、先の新選組大坂屯所「萬福寺」で説明いただいた儒学者の藤井藍田の捕縛は、たまたま紀州藩邸に近い場所で私塾を開いていたがため怪しまれ捕らえられたという説もあるそうで、今からその藍田の私塾「玉生堂」跡へ向かうので、しっかり距離感を感じてくださいね、との説明があり移動。「藤井藍田 玉生堂跡」は高台橋公園内にあり、200m程の距離で、まさに目と鼻のさきでした。ここに安政3年から塾を開き、勤王討幕の志士の溜り場となったそうです。そしてこれといった罪状もなく捕縛され、さきの「萬福寺」納屋で拷問死したそうです。私は藤井藍田の事を全く知らなかったので、お話を聞いてとてもショックでした。もちろんこのような事は幕末にはたくさん起ったと思いますが、そのひとつひとつを、出来るだけ知りたいと改めて思いました。

源聖寺坂でも記念撮影

やはりくたびれるみたいですね。

 そして長堀通り西大橋交差点に建つ「間長涯 天文観測の地跡」へ、この辺りでまた大雨となり皆さん寄り添いながら移動。「新町九軒桜堤の跡」「吉田屋跡」へ、この吉田屋へは土方歳三、沖田総司、また芹沢鴨らもよく遊興に出掛けたのだそうです。

 厚生年金会館の前を通ると、TMNのライブがあるらしく若いファンの子達が集まっていました。その前をゾロゾロ移動してゆく私達はいったい何の団体に見えるのかしら?と美奈子さんがポツリ。確かに。笑いながら、大正昭和期の詩人「百田宗治詩碑」から「新町橋跡」へ。

 本町・淀屋橋周辺では、まず「南御堂」(東本願寺難波別院)へ。戊辰の役での薩摩藩屯所跡であったとのこと、明治元年の西南の役では、征討総監府本営ともなったそうです。また元治元年、長州藩士切腹がこの門前で派手に行なわれた事件も興味深いものでした。

 「北御堂」(西本願寺津村別院)でもたくさんご説明いただきましたが、文久3年4月、勝海舟が海軍の必要性などを進言するため攘夷派の公家姉小路公知に謁見したのが、この北御堂(西本願寺)だったそうです。龍馬さんも関係する話しなので特に興味をひきました。

 そして続いて向かったのが、北御堂の近くのビル街、ここは碑のない場所ですが「加賀屋徳兵衛邸跡」とのこと?これだけ聞いても何かまったく分かりません…。元治元年11月に新選組の近藤勇が豪商加賀屋を呼び出し大坂商人に対し15万両の献金を要請したのだそうです。その呼び出しを受けた加賀屋さんの邸跡だそうです。15万両もすごいですが、この場所をご案内いただける事もすごいです。

 「勝海舟寓居跡/専稱寺跡」へ。こちらも碑もなくその跡地にはビルが建っていました。テキストにとても詳しく紹介されていますが、専稱寺跡と確定されるまでの研究に感動しました。現在の専稱寺は神戸へ移転され、以前は勝海舟らの資料が残っていたそうですが、昭和の戦災で焼けてしまったのだそうです。その中には龍馬さんが記念に残したという『絵のようなもの』もあったそうで、皆さん(私も)一斉に「え〜、残念っ」の声。神戸へ移る前の海軍塾もこの専稱寺であったということで、これから活躍する龍馬さんらのまさに‘青春の地’だなと感じました。またここ専稱寺では勝海舟と西郷吉之助の会見があり、桂小五郎、松本良順など訪問者が絶えなかったそうです。

 専稱寺跡から「勤王僧 月照誕生地」へ。ここで残念ながら時間切れとなり、残りの史跡はまたの楽しみとなりました。北浜駅へ向かう途中「旧鴻池家本宅跡」を最後に案内していただき「大坂史跡探訪N」は終了となりました。

 「旧鴻池家本宅跡」の前で講師の長谷さんに、大きな拍手が起りました。長谷さん本当にお疲れさまでした。そしてありがとうございました。来年の第6回も楽しみにしています。

日本も捨てたものじゃないね!
 雨続きの週末、「この3連休はどうか雨が降りませんように・・・。」と前日まで願いながら午前7時に起床した平成16年10月10日。この日は今年の大きいイベントの1つである『鞆の浦・備中松山ツアー』の出発日であった。台風22号の接近を恐れていたのなんて忘れさせてくれる(この原稿を書いている時は台風23号が各地に大きな爪あとを残していった後だ)かのような秋晴れで、バスの中ではみんな本当に楽しそう・・・ではなく結構静かだ。当初の予定より少し下回った参加人数、2人掛けの座席に1人で座ってもまだ余りある車内は広すぎるのかあまり会話が無いように思えた。今年は昨年みたいなマニアッククイズも無かったし、事務局長の林氏はジュニア君にかかりきり(しかし、本当に良い顔をしていましたなぁ)。昼食は途中のS.Aでとなったがさすがは3連休の中日、かなり混雑していた。

 そして、無事鞆に到着。と、雨が降っているではないか!関西は晴れていたのになんという散策不日和。目の前は瀬戸内海が広がるきれいな景色のはずだが、こんな雨では楽しみも半減してしまう。やはり史跡巡りは晴れているのに越した事はない。

 ともかく、バスの駐車場を後に最初の目的地へと足を運ばせる。頼山陽先生日本外史起稿史跡・対仙酔楼に着いた。そこではある男女お二方が待っておられたのだが、後で聞くと岩手県から来られたとの事。もちろんみんな笑顔で挨拶を交わす。いい光景やねぇ、何といっても一期一会の精神(こころ)が今そこにある。私達が会津や函館へ行くように、あちらの方も広島県まで来るんだなぁと納得して講師の話に耳を傾ける。

 次に向かったのが魚屋万蔵宅。ここは、いろは丸事件の談判を行った場所だ。地元の案内の方が入り口を開けて下さり、1歩中へ入るとそこは何とも言えずいい雰囲気を醸し出していた。何も分からなければ「長年空き家となっているんだな。」としか思わないかも知れない。しかし、私達は今自分が来ている所がこの先ずっと残していかなければならない史跡だという事を感じている。たとえ4日間でも龍馬が逗留した場所なのだ。案内の方もおっしゃっていたがここを改修・維持していくには高額な費用がかかってしまう。だけどそれを公的機関からすぐに得られるのは難しい。歴史的価値の有無は、私達が考えているのとは別のところにあると考えられているらしい。

 龍馬が談判の時に座ったであろう場所、そして寝起きをしたであろう2階へも足を踏み入れる事ができた。それだけでも感激ものだ。もちろん、今年の春やっと購入できたMyデジカメ(愛称“ピキシィちゃん”)で写真を撮りまくる。140年前に龍馬はここを訪れた。それは紛れもない事実であり、そして今私がここにいる。静かな感動が私を襲った。しばし過去と現在とを重ね合わせる。

我らが講師:上田ぴょんさん

いい季節でした。コスモスが満開

 その余韻に浸りつつ向かった先は太田家住宅朝宗邸だ。かつてはこの地の特産物・『保命酒』の造り酒屋であり、三条実美ら七卿が泊まった所でもある。さすがは国指定重要文化財だ、見る建物どれもがすばらしい。住居部分もさることながら土蔵群がまたすばらしい。酒蔵などを合わせると少なくとも6つはあって、1つ1つが広くどっしりとした構えをしていた。また、江戸時代は西国大名たちが宿泊する本陣でもあったとの事。どうりで部屋数が多いわけである。主屋だけでも4つの部屋があり、ふすまを外せば大広間となるだろう。一度でいいからそんな家に住んでみたいものだ。(しかし掃除が大変だろうなぁ・・・)

 太田家住宅を後にし、すぐ近くのいろは丸展示館へ。この施設は小さな子供も遊べる場所だ。私達が館内を回っている時も子供が数人龍馬クイズで遊んでいた。三択か四択か忘れたが、正解のボタンを押すと『ピンポーン』と言う音がする仕掛けになっていて子供達は手当たり次第押していた。ここは、いろは丸から引き揚げたいろんな物が展示してある。ドアノブや石炭・陶器でできた食器など様々であった。「全部引き揚げられたのかな?もしかしてまだ海底に・・・。」と不必要な憶測をしてみる私。何気なく入り口の売店を見てみたらいろんな会報誌が置いてある。思わず「龍馬速報、龍馬速報・・・」と探してみるとやっぱりありましたわ!という事は、この号ももちろん置いて下さるのですね。今、かなりプレッシャーを感じながらこのレポートを進めている現状である。

 展示館から外に出てみると目の前は海、ただ海があるだけだ。向かって右には常夜燈があるのだが、夜になってこの常夜燈に明かりが灯されたところを想像してみた。海には漁り火(夜間に漁に出るかは知らないが)、陸には灯火、さぞや美しい光景だろう。あいにくと雨は続いていたが、海と島とが織り成す光景はシンプルながら美しかった。当たり前の事だが、大阪市内に住んでいる私には普段見ることができない景色である。日本もまだまだ捨てたもんじゃないね!

 次は福禅寺・対潮楼へと足を運ぶ。座敷には先のツアー客が案内の方の話を聞いている。終わればお決まりの記念写真撮りで結構な賑やかさだ。しかし海の眺めはすばらしく、先ほど常夜燈から見た景色にまた出会う事ができた。ここは、恋人と一緒にまったりとした気分で眺めを見る方がいい。1組のカップルが私に「写真撮って頂けますか?」と近づいてきた。内心“ちくしょう、このやろう”と思いながら、もちろん顔はスマイルで「いいですよ。」そんな私の心を分かってくれたのか、なかなかカメラのシャッターが下りてくれない。何回も試しつつやっと写真を撮ってあげる事ができた。

 ここでバスの駐車場の方へと戻るのだが、鞆シーサイドホテルに立ち寄りお手洗い&お土産タイム。みんなお手洗いを済ませた後は売店でショッピング。私は『鯛茶漬け(わさび味)』を購入した。お菓子は高梁市の『ゆべし』を買う事にしていたのでこれだけにしたのだ(結果として次の日に泣く事になろうとは、この時の私には気付くよしもなかった)。ホテルを出てみんなをチェックするとほとんどの人が『保命酒』を買っている。そんなに有名だったのね、無知な自分に鉄拳パンチを食らわした。

対潮楼で記念撮影

ふうふういいながら登りきった備中松山城

 駐車場近くの桝屋清右衛門宅が鞆巡り最後の史跡だ。海援隊の宿舎跡で廻船問屋を営んでいただけあって立派なお家だ。お宅拝見したかったがここは外からのみ見学である。ここで私のピキシィちゃんの様子がおかしい・・・あぁ、もう電池が切れるぅ。確認して来なかったお母さんを許して〜。

 そんなこんなで疲れもピークに達していた。早くホテルに着いてほしい、横になって寝たい。そんな思いだけが私の頭を駆け巡る。やっとホテルに到着し、ゆっくりしようと思っていたのだが、いざ部屋に入ると「腹ヘリコプター!」(某料理番組のアイドルK君より)。とてつもない空腹感が私を襲う。夕飯はホテル横の居酒屋へ。久し振りに大阪龍馬会らしい飲み会であった。みんな笑い、よく食べよく飲み楽しいひと時だ。私はこの飲み会も惚れ込んでいるのだ。飲み会が終盤を迎える頃、「あ〜疲れたぁ」と言いながら入ってきたのは大阪龍馬会のマドンナ・野村さんだ。「お仕事お疲れ様です。明日は一緒に楽しみましょう!」と心の中で声をかけていた私であった。

 明けて11日は、なんと午前7時半出発だ。昨年もそうだったが時差ボケのようにまだ寝ている頭をたたき起こしつつバスへと乗り込む。車内には「タツー、タツー」と事務局長ジュニアをあやす野村さんの声が響いている。ジュニア君もすごく嬉しそうだ。

 そして、ここでやっとご登場の備中高梁ツアー講師の上田氏。備中松山藩士にして陽明学者・山田方谷についての説明を受ける。このツアーの案内を見るまでは聞いた事がない名前だったが、かなりの人物だったのが講師の説明と手もとの資料類で分かる。

 山の中を走らせること1時間半、眼下に高梁市の町並みが見えてきた。山と山の間にあるこの町は金田一耕介シリーズの映画を思わせる。バスはらせんを描くように町へと下りていった。

 バスを降りると気持ちいいほど晴れていてかなり暑かった。昨日とは打って変わって散策日和だ。雰囲気のよい景色を見ながら川ぞいを歩いていてふと気づいた。「しまった!ピキシィちゃんを持ってくるのを忘れた!!」昨日はあまり電池がなかったが、一晩寝たから今日ぐらい持つだろうと思っていたのに。あなたの事をバスの中に置き忘れたお母さんを許して〜。

 まず向かったのは有終館跡。建物は残っていなく石碑のみだった。幼稚園が敷地内にあったがこの日は当然ながら休日、かわいい子供達の姿が見られずに残念・・・。

 次は、原田亀太郎生誕の地。「いったい誰やねん!?」と思ってしまうが、この人は天誅組関係の人だ。今回の参加者にも天誅組ファンは多く写真を撮る人が多かった。私も天誅組をもっと勉強しなければいけないな。

方谷駅で記念撮影

観光バスで出発

 レトロな町並みを講師について行きながら歩くと高梁市郷土資料館に着いた。ここは江戸時代からの生活用具を展示しているところで2階建てだ。昔は学校だったとの事で昭和40年代まで使用していたらしい。まずは1階を見学。蓄音機や型の古いオルガンなどが何台も置いてあった。オルガンを触ってみたが音がちゃんと出るものもあり、何か弾いてみようと両手を鍵盤の上に置いてみたが『猫ふんじゃった』しか分からなかった。それはさすがに恥ずかしいので自身で却下する。2階はもと学校らしく講堂になっていた。広い部屋に鋤(すき)や鍬(くわ)などの農具・酒造り用具などが並べられていた。教壇にあたる一段高くなった所に上がるとなぜだか自分が偉くなった気がした。ふと後ろを見ると、昭和天皇・香淳皇太后(でしたっけ?昭和天皇のお后様です)が祀られていた。やっぱり旧尋常高等小学校だ、時代色がうかがえた。ここで備中鍬を発見。これがあの有名な、確か教科書にも載っていた様な気がする。

 ここからはしばしお寺巡りだ。まずは安正寺。備中松山藩主・板倉家の菩提寺である。その次が道源寺で藩士・熊田恰(くまたあたか)のお墓がある。そして頼久寺へ足を運ぶ。ここは山田方谷の寓居跡の石碑があった。

 歩きながら私は思った。この町は静かなたたずまいで、山があり川が流れ、野道や家の玄関先には花が咲いていて、素朴ながらも人の心を癒してくれる。日頃せかせか動いてばかりいる私にはこんな光景は本当にありがたい。大げさに言うと心が浄化されていくようだ。

 土塀が続く中を歩いていくと武家屋敷が見えた。ここが次の見学施設である。私はかなり最後のほうだったが、門をくぐると玄関辺りから「キャーッ!!」と何やら黄色い声がした。声の主はどうやら山岡さんのようだ。「何!?ここはお化け屋敷か、そんなアホな」と自分でツッコミを入れながら玄関まで行くと、なるほど先ほど声をあげた理由が分かった。等身大の人形が座っているのだが、人が入ってくるとセンサーがキャッチしてお辞儀をするのだ。おそらく、人形が急に動いたものだからビックリしたのだろう。案内の方が説明してくれたのだが、ここのお城は山の頂上にあるため毎日上るのは骨が折れる。なので、町の中に居を構え通常政務を行う実質上のお城としたとの事。そこは後ほど行くらしい。

 その実質上のお城があった所が今は高梁高校となっている。この学校はなかなか興味深い。正門なのかは分からないが門の1つが、140年以上はそこにあるだろうと思われるほど重厚感のある構えの門だった。それと、学校内に電車が走っていて踏み切りまであるのだ。そのような学校を私は今まで見た事がない。みんなその踏み切りをカメラに収めていた。

 八重雛神社へ向かうともうお昼前だ。そろそろ空腹を覚えてきた。板倉家の祖霊を祀る神社で境内には『臥牛亭』という当時の建物が残っていた。その建物の雨戸を誰かが開けて中を覗いていると、先を歩いていた講師が飛んできて「僕にも見せて〜」その顔は何とも言えずかわいらしかった。

のどかに史蹟散策

二次会はいいお酒でした

 いったん昼食を取るためにバスが停まっている所まで戻る。歩いていると『ゆべし』を売っているお店を発見。しかし、今は先を急ぐので後にしようと思ったのが間違いだったのだ!あ〜あのような事になるとは・・・。

 さて、いよいよ本日のメインイベントである備中松山城へ登る時が来た。観光協会の方がマイクロバスを出して下さり(私達のバスでは大きすぎて道が通れないのだ)、いざ出発!かなり上のほうまで登って下さった。ここからは自力だ、頑張らなくては。男性陣は、交代で事務局長ジュニアを抱いて山道を登っていた。汗だくになりながらも何とか1人のリタイアも出すことなく、全員お城の入り口までやってきた。ちなみに、最後にジュニアを抱いていたのは“飲むと暴れるおじいちゃん”横山氏だった。おじいちゃんの胸に抱かれ、またもや嬉しそうなジュニアだった。

 天守閣に登り窓から見た風景はなんと眺めの良い事か!午前中歩いていた町並みがあんなに小さく見えるとは、殿様気分とはこういうのを言うのではないかと思った。しかし、今は21世紀なのか?ここだけ時が止まっているようなセンチな感覚にとらわれる。やっぱり日本もまだまだ捨てたもんじゃないね!

 帰りはマイクロバスまで自力で下る。ひざが笑ってきた、明日は絶対筋肉痛だ。私は下る方が苦手なのだが、1人で騒ぎながら何とかマイクロバスまで到着した。

 またまた観光協会の方がバス駐車場まで送って下さり、このエリアはここで終了。次のエリアまで移動だ。バスが走り出してハタと気づいた。あー、『ゆべし』買ってないよぉ!食べたかったな、『ゆべし』・・・。

 次のエリアは高梁市中井町という山田方谷の里だ。まずは、ふれあいセンターにて資料などを頂く。そこは方谷に関するものが展示してあり書籍まで販売していた。案内の方が方谷園というお墓・生家跡などがある場所へ連れて行ってくださった。お墓に“方谷山田先生墓”と姓と名前を逆さに書いてあるのは、藩主・板倉勝静が「方谷、方谷」と名前で呼んでいたから名前が先にきていると説明を受ける。このお墓の書は板倉勝静だったのだ。

 このバスツアーも最後の行程まで来てしまった。JR方谷駅だ。狭い道を走らせて着いた所は小さく何やら風情のある駅だ。林氏は言った、「さて、どこへ行くと石碑が見えるでしょう?」どういう事なのだろう、ホームに上がるのか?ホームへ行くには駅舎の横を上がらないといけない。みんな四苦八苦して上る。線路がありそしてホームがあるが、ふと山側を見ると石碑があるではないか!しかし、そこへ行くにはいったん線路に下り、ホームに上がりまた線路に下り、大変そうなので遠くから眺めるだけにした。でも、ホームに上がりたいという願望は抑えられず、線路に下りて必死でホームによじ登る。かなりの形相だったに違いない。日頃の運動不足がここで発揮(?)された。男性陣はさすがだ。線路とホームを上り下りしながら山側にある“山田方谷先生旧宅址”と書いてある石碑を間近に見ながら写真を撮っていた。

 これにて全行程は終了した。後は大阪へ帰るだけだ。辺りはすっかり暗くなっているが、予定時間を大幅に押しているのだろう。しかもこの日は3連休の最終日で、かなり道が渋滞していた。「大阪に着くのは21時半ぐらいになるやろうなぁ」と林氏の声に「えっ!?」と絶句したのは、墓前祭と忘年会に参加すれば今年の皆勤賞は『間違いない』愛知県民・野々山氏だった。この後、彼が定宿にしている大阪市内のホテルに宿泊を予約したのは言うまでもない。

墓前祭・・・始めて参加して、日記
11/28日(日)お天気は、晴・・・快晴v(^。^)v

 絶好の紅葉狩り日和!!じゃなかった、お墓参り日和!?今年はまだ一度も紅葉狩りには行けなかったので、朝から期待度絶好調で、ウキウキ出かける準備をする。大阪龍馬会に入会して、始めての墓前祭のイベント参加。大勢の方が集まるのかなぁ〜。楽しみ。

 京阪電車、京橋駅で大阪龍馬会、会員の友人Eちゃんと待ち合わせ。出町柳行きホームに上がってびっくり・・・人・人・人。とにかく覚悟を決めて、通勤ラッシュ並の特急に乗る。(>。<)こんなに、込んでいる特急に乗るのは始めてで、段々と人+電車酔いする。もうギブアップ、今度の駅で降りようと思ってた時に、目の前の座席が中書島駅?ぐらいで空いて、Eちゃんよりおばちゃんの私は座らせて貰う。(優しい、Eちゃん有り難う!!) 

 なんとか、京都四条駅に着く。気分が悪い私、休憩しながら時計みたら、「集合時間11:30まで後5分だ!(大汗)」慌てて駆け上がって、2人でダッシュ!やはり、地上も観光客でいっぱいで、人混みをかき分けても前に進まず、一力亭辺りで、タイムオーバー!Eちゃんまで巻き添えに、ゴメンね。

 慌てて、事務局長さんに電話する。怒られるかなぁ。。。と思いきや、優しく対応していただいて、ホッとしながらも、急ぐ。

 八坂神社石壇上に到着!会員の皆さんの暖かい笑顔を見つけてホッとしながら、お詫び+ご挨拶。たくさんの方が集まってる〜!!・・・ベビーカーに悠々とご機嫌な事務局長さんJr(最年少会員さん・・・いや、幹部候補!?笑)と対面。(私一人で死にかけたのに、事務局長ご夫妻は赤ちゃん連れであの京阪電車を!?さ・・・さすがだ。)と感服。

 事務局長さんJrは電車の人混みにも泣かずに大人しかったと。さすがは次期、事務局長!?肝が据わってる・・・。早ければ10数年もすれば、彼がこの会を引っ張るのかと、確信する。

 そんなこんなで、お久しぶりの皆さんと、ワーワー談話しながら、『霊山護国神社』へ出発。

 今日の講師は北浦氏。どんなお話しが聞けるか楽しみ♪

 しかし、何度、上がってもヘーへー息を切らしてしまう霊山の坂道。あのしんどさがあるからこそ、龍馬さん、慎太郎さんの墓前に着いたら、不思議な安堵感があるような・・・。

 11月・・・この時期のお参りはやはり感慨深い物が。火まで付けて下さったお線香を有り難く頂いて、心静かに合掌。お参り後、眼下を見渡せば、真っ赤な紅葉の合間に、京都市街が。とても良い気持ち!来て良かった〜。

 そこで、講師の北浦氏が声高に、「皆さん、今日の@の目玉です!ラストサムライのお墓発見しました☆」のお言葉に一同ざわめく。私は(や、やはり、大阪龍馬会の幹事さん方は日頃からお墓や史跡ばっかり研究しているんだ・・・。)とビックリする。Eちゃんと、私はだいぶ既にへばり気味だったので、(まだまだ、木戸さんのお墓ぐらいまで登山するなら、下で待たせて貰おうか?)と恐る、恐る、北浦さんに尋ねると「すぐそこ!」とのお返事だったので、大喜びで後を追う。

 龍馬さんのお墓よりななめ後ろの坂を少し上がった所辺りに(とってもアバウトでごめんなさい。詳しくは北浦氏に聞いて下さいませ。)

 『ラストサムライ・・・こと市川精一郎、改名して三枝(サエグサ)蓊』のお墓が。北浦講師の説明を聞く。北浦氏から聞いた、司馬遼太郎氏の小説『幕末』の中に描かれている、『最後の攘夷志士』・・・良く覚えてないから帰って読み返すと・・・あった♪

 『英国公私パークスの行列に斬り込み斬人斬馬、刀折れた時、英国兵の銃によって倒れ補縛され、かつての攘夷の同志の手によって斬首、極刑・・・罪人ほんの数ヶ月前なら、天誅として讃えられて死後は叙勲の栄があったであろう』(司馬遼太郎氏、小説『幕末』より)か・・・。何が正義で、何が悪か。みんな、日本の事を考えてした事なのに、罪人扱いの志士もいれば、靖国神社で厚く葬られている志士もいる。・・・せつないなぁ・・・今の日本を有り難う。合掌。

本日の講師:北浦半次郎氏

龍馬墓前から見る京の町と紅葉

 次に向かうは、『南禅寺』へ。この道のりが長かった!大阪龍馬会、恒例、交通手段は徒歩だぁ〜!!を慣行。「歩け!歩け!史跡に向かって音頭」を勝手に頭で唄いながら、自分で自分を励ます。それでもめげてきたら、京都在住Yちゃん、学生時代京都在住だったMちゃんに「まだ、着かないのかなぁ?」と恐る恐る聞くと、「知らない方が良いよ!」とお顔をこわばらせながら?のお返事に落胆。・・・うぐっ・・・なら、最後まで歩いてみせよう、ホトトギスだ・・・しかし、恐ろしく観光客だらけの道を、皆さんお魚ばりにスイスイかわして歩く。恐るべし、大阪龍馬会、会員の皆さん・・・。

 『南禅寺』やっと、到着。とっても、急な階段を必死で上がって、ホッと一息。『絶景かなぁー絶景かなぁ〜〜〜!!!!』 宮部鼎蔵の下僕であった忠蔵が、池田屋事件前の六月一日、新選組に捕縛され、南禅寺山門に生き晒しにされたが、小川亭のテイ女が助け出したと言うエピソードがある(イベント冊子丸写しする)と。どうやって、助け出したんだろう???

 次は『天授庵』に、到着。中に入ると、さっきまでの観光客の喧騒とはうって変わっての静けさ、「これぞ、日本の秋!日本の美・・・」紅葉に見とれるふりして?姑息に縁台に座る。事務局長さんに「何をのんびり、座ってる!」とのお叱り。のんびり休みたい気分を奮い立たせて、やはり、ここも墓地へ。

 幕末の学者で維新政府の参議であった横井小楠、幕末の勤王詩人梁川星巌夫妻のお墓に合掌。終わって再び本堂の縁側では、事務局長Jrが紅葉と戯れる。紅葉の手で紅葉を掴んで口に入れ・・・。「にが〜☆」のお顔。か、かわいい!女性陣の顔がほころぶ。ご両親曰く「そうそう、そうやって身を以て苦いを知る。」

 そう言えば、この前ユーミンのFMラジオで世界的に有名らしい、フランス料理人シェフが言ってたっけ・・・「人間の体で、味覚の【苦い】も必ず幼少期までに体験しなければいけない大事なこと。」だとか。そう、人生も味覚も苦いが大切なんだなぁ・・・。

 しばし、天授庵で紅葉狩り。天を授かっている、庵?確かに、美しいお庭だったなぁ。

 次は『水路閣』へ。知る人ぞしる、『火曜サスペンス』の舞台になるところ?だとか。私はあまり見ないので、使われている場面は見たことなかったけど。

 京都市指定史跡に指定されているとの事。毎秒2トンの水が流れているとの、イベントの資料を見てビックリ。異国風建物がとっても良い雰囲気。デート場所に良いかも・・・って言うか、まだピチピチだった頃、別れた彼とデートしたっけ。(苦い)

 つ、次は?まだまだ、歩くか?意識朦朧としてきながらもたどり着いたところは、『無鄰庵』明治・大正の元勲、山県有朋の別荘。事務局長の奥様Mちゃんに、「お抹茶&甘物で休憩有りよ!」と励まされ、(よっしゃ〜♪)大きく頷く。

 到着、すっごく広い!!!素敵な日本庭園を眺めながらの、お抹茶タイム。至福の一時。ここで、事務局長さんより、「陽が沈むのも早くなり、時間も押してきました。歩かれて、だいぶお疲れの方もいらっしゃるようなので!(ここで、しっかりと目が合ってしまったので、それは私・・・と白状する為に挙手。はい、私ゃ〜もう歩けません。)・・・良かった。体力限界だった私は笑顔を取り戻す。

 お茶の後に、庭園散策、洋館の1階は展示室、2階は山県有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎が会議を開いて、日露戦争開戦を決定したとの事。「これが有朋の椅子だぁ〜!!控えおろぉ〜!!!」て自己主張している1つだけ金色の一人がけソファーが面白かったなぁ。。。花鳥文様の格天井、本台つき長椅子、テーブル、鶴、桜の壁画。シャンデリア。とっても贅沢な作り。

 先にお参りした、ラストサムライこと、三枝さんと長生きされて、日本で君臨した、山県さん。比べたらいけないんだけど。。。皆さん、どう思われます!? 凄い時代ですよねぇ・・・幕末って。だから、面白い!?(^^)

 今日は、大阪龍馬会の皆さんと、楽しかったなぁ〜。おしまい。

 講師の北浦さん、イベントの準備を何時間もかけて作り上げてくださった幹事のみなさん、有り難うございました。2005年も楽しく史跡巡り出来ますように☆

無鄰庵でお茶を飲みながら話を聞く

天授庵の紅葉 最高!!