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龍馬会ニュース 2006年
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2006.11.30 更新
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●マツノ書店 復刻情報●
○1月初旬に下記の書籍の復刻の案内があります。パンフレットご希望の方はマツノ書店へお申し込み下さい。
・『会津藩教育考』(小川渉)
・『吉田松陰 東北遊歴と其亡命考察』(諸根樟一)
・『赤禰武人の冤罪』(村上磐太郎)
○今後の予定は『大久保利通日記』『西郷隆盛伝』『山縣公のおもかげ』『相楽総三史料(仮題)』『慶応戊辰 奥羽蝦夷戦乱記』等の復刻を準備中です!
マツノ書店 http://www.matuno.com/ 〒745-0032 山口県周南市銀座2-13
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●長岡市、河井継之助記念館を開設へ●
○新潟県長岡市は11月21日、幕末の長岡藩家老で、司馬遼太郎の歴史小説「峠」の主人公、河井継之助の記念館を12月27日に開設すると発表した。同市長町1丁目の生家跡の住宅を改装する。○記念館では、西国遊学の際に書いた唯一の著書「塵壷(ちりつぼ)」の原本を初公開するほか、「峠」の直筆原稿などゆかりの品約40点を展示する。総事業費は2億4000万円。○河井が没した福島県只見町に記念館があり、全国2番目だが、長岡市は「生涯をテーマにした展示は初めて」とPRしている。○入館料は大人200円。大学・高校生、障害者手帳保持者とその介助者は150円。小中学生は100円。(朝日新聞 11/21)
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●十津川・隠岐夢街道マラニック:儒者・中沼了三しのび、五條から足跡たどる●
◇8人参加、五條から77キロ足跡たどる ○幕末、十津川村に文武館(現十津川高校)を開いた島根県・隠岐出身の儒者、中沼了三(1816-96)をしのび、中沼が歩いた道を自分たちの足で追体験するイベント「十津川・隠岐 夢街道マラニック」が11月18日行われた。マラニックは「走ったり、歩いたり」の意味。参加者8人が五條市から十津川村までの約77キロを12時間かけて踏破した。○中沼は京都で塾を開き、1864(元治元)年、孝明天皇の命で十津川を訪れ、文武館を開いた。この史実を縁に、十津川村と隠岐の両地域では10年ほど前からさまざまな交流を続けている。○今回のマラニックでは、隠岐側からは隠岐港町のスーパー経営、武田浩志さん(42)や、島根、鳥取両県在住で武田さんのランニング仲間4人が参加し、十津川村からは平谷小教頭、芝田公一さん(51)や村職員ら4人が参加した。○午前6時、中沼が通ったとされる五條市の五條代官所跡地を出発。コースとなる国道168号は坂道の連続だが、健脚家の参加者らは楽々と駆け上がっていた。○武田さんは「中沼さんの歩いた道を自分で走ってみると、中沼さんの思いが伝わってくる」と思いをはせていた。一行は午後6時、十津川村込之上の十津川高にゴールした。(毎日新聞 11/19)
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●「山紫水明処」の屋根ふき替え−上京・頼山陽草庵●
○江戸後期の儒学者頼山陽(1780-1832)が晩年を過ごし、「日本外史」を書き上げたとされる書斎「山紫水明処(さんしすいめいしょ)」(京都市上京区、国史跡)の屋根ふき替え工事がこのほど完了した。文人趣味が随所に生かされた草庵が当時の面影を取り戻した。○京都府教委が昨年2月から1年半かけて修理した。琵琶湖のヨシを用いて屋根をふき替え、屋根裏の骨組みも修理。柱は樹脂を充てんして補強したほか、建物の傾きも修正した。○京で転居を繰り返した山陽は1828年、自邸敷地内に「山紫水明処」を建立、画家の田能村竹田ら文人墨客と交遊した。○夕刻の東山と鴨川の風景を形容した「山紫水明」は、風光明美な風景を表す言葉として一般的に使われるようになった。○六代目の頼純子さん(34)は「台風のたびに不安だったので、ひと安心。自由奔放な山陽が晩年たどり着いた落ち着いた生活の場を味わってほしい」と話している。○見学(有料)の申し込みは、往復はがきで〒606-0063 京都市東山区新門前松原町289 頼山陽旧跡保存会。(読売新聞 11/28)
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●勤王党志士島村衛吉の刀 青山文庫へ●
○土佐勤王党幹部だった島村衛吉(1835-65)の遺刀がこのほど、高岡郡佐川町の博物館「青山文庫」に寄贈された。同文庫の松岡司館長は「幕末の志士の刀は、県内に10振りほどしか現存していないのではないか。保管状態もよく貴重な史料だ」としている。○衛吉は旧香美郡下島村(現南国市)出身で、武市瑞山の妻、冨のいとこに当たる。剣の達人で江戸三大道場の一つ、士学館(桃井道場)で塾頭を務めた。土佐勤王党への弾圧で捕まり、31歳の時に拷問により死亡したとされる。○刀は衛吉の兄弟の子孫である故島津忠直さん=土佐市家俊=が約50年間保管。島津さんは今年5月に83歳で亡くなったが生前、松岡館長と親交があったことから、同文庫に寄贈されることになった。○刀は江戸時代前期の作で、全長約96センチ。刃と棟(刀の背)の間に稜線(りょうせん)がある「鎬(しのぎ)造り」。棟は家の屋根の形をした「庵棟」で、表面はさびもなく輝きを放っている。○島津さんの妻、登美さん(81)は「夫は『刀を朽ちさせては、衛吉や刀を受け継いだ人たちに申し訳ない』と話していた。受け入れ先が決まりほっとしています。多くの方に見ていただければ」としている。○刀は来年1月に同文庫で開催予定の「刀剣展」で公開される。(高知新聞 11/28)
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2006.9.23 更新
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●五稜郭内に箱館奉行所を復元●
○2010年に完成、総工費33億円○国の特別史跡「五稜郭跡」内に箱館奉行所を復元する工事が始まった。○五稜郭はもともと、役所である箱館奉行所を防備上の理由から内陸に築く目的で幕府により建造された。1864年に完成し、僅かな期間、奉行所として機能したが、明治政府の発足に伴って政府機関「箱館裁判所(後に箱館府)」となる。その後、新政府に抵抗する榎本武揚ら幕府脱走軍が占拠、箱館戦争終結までの拠点となるも、戦争後奉行所庁舎は明治政府によって解体された。
復元においては、発掘調査の成果や現存する絵図面、古写真などをもとに、正確に当時の位置に寸分違わぬ姿で建てることを主眼に置いている。但し、復元されるのは奉行所庁舎の主要な部分のみで、全体の1/3程度の範囲。また、建築時の記録に基づき、できる限り当時と同じ材料、工法で建築時を再現する形で工事を行なう。○こうしたことから、函館市教育委員会では完成した姿のみならず、復元工事の課程を見せることにも価値があると考えている。具体的には、工事用の囲いを透明のものにして外から見えるようにしたり、期日を決めて工事途中の建物内部に入る見学会を開催するなどの方法を検討中だ。○工事は平成22年(2010)6月頃に終わり、同年7月のオープンを予定している。完成後の公開は有料(料金未定)となる。「あくまでも役所としての建物である奉行所そのものを見て頂く」(市教委)ことが復元の目的であるため、奉行所庁舎内にガラスケースを並べて展示物を陳列するようなことはしない。○奉行所復元に伴い、五稜郭の内部全体を当時の姿に合わせて整備するため、付属建築物である土蔵や板蔵などの復元も行なう。これに伴い、現在、五稜郭内にある市立函館博物館五稜郭分館は解体される。同館には箱館戦争関連の展示物が収蔵されているが、奉行所完成後は展示スペースがなくなるため、博物館本館に移される予定。○市教委では、「五稜郭は箱館戦争の場として捉えられているが、奉行所完成の折には本当は何故五稜郭があるのか、そもそもの歴史的経過を見て頂きたい」と話している。また、「五稜郭に来られた観光客の方から、『中には何にもない』との声をよく聞く。そういう意味では、中に奉行所ができることにより見て頂く内容が濃くなり、それまでより長い時間留まって楽しんで頂けるのではないか」と観光への効果も期待している。
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●平成20年NHK大河ドラマは「篤姫」●
NHKは、平成20年の大河ドラマが「篤姫(あつひめ)」に決まったと発表した。原作は宮尾登美子さんの「天璋院篤姫」。脚本はNHK連続テレビ小説「さくら」などを手掛けた田渕久美子さん。主演は宮崎あおいさん(20)。○主人公の篤姫は、幕末のファーストレディー。薩摩・島津家の分家に生まれながら、江戸幕府第13代将軍・徳川家定の正室となった。わずか23歳で未亡人となったが、その後の将軍の後継問題、故郷・薩摩を中心とした倒幕の動きといった幕末の動乱の中で、大奥を預かる総帥として、江戸城の無血開城に大きな役割を果たした人物。幕末期を舞台とした大河で女性が主人公となるのも初めてだ。[デイリースポーツ]
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●坂本龍馬「新政府綱領八策」●
坂本龍馬による政体構想「新政府綱領八策」(1867年)など、日本の開国から100年間の史料約150点が、国立国会図書館のホームページで公開されている。○同館が所蔵するペリー来航以来の政治家や軍人の書簡や日記、メモなどの原史料を公開。写真だけでなく、政治史の裏話を紹介するコラムや、史料の読み解き方なども掲載される。○吉田茂元首相が終戦直後、軍部について「今はザマを見ろと些か溜飲を下け居候」とつづった絵はがき(昭和20年)なども含まれ、時代の雰囲気や先人の人柄も読み取れそうだ。[産経新聞 ]
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● 川谷銀太郎を後世に 堺事件で流罪 四万十、入田地区の住民が墓整備●
○幕末の1868年に大阪・堺港を警備していた土佐藩士がフランス水兵11人を射殺した「堺事件」で、旧入田村(現四万十市)に流罪となった藩士9人のうちの1人、川谷銀太郎の墓と周辺が、入田地区の住民の手で整備された。住民らは「墓前に経過を記した看板も立て、後世に語り継ぎたい」と話している。○堺事件では、藩士20人が切腹を命じられたが、処刑途中に中止。生き残った9人は四万十川沿いの旧入田村に流され、明治改元の恩赦で放免された。○昨年末に亡くなった旧中村市文化財保護審議会長の正木信邦氏が書いた「大阪堺事件と入田村」(22頁)などによると、住民は9人を温かく迎え、村の行事を通じて交流していたが、川谷は相撲興行後に体調を崩し、恩赦が出る3日前に26歳で死去。住民は高台に川谷の墓を建て、丁重に葬ったとされる。○戦後、「堺港攘夷始末」を著した作家・大岡昇平や研究者らが相次いで墓を訪れ、住民の参拝も続いていたが、ここ数年は草木が墓地周辺を覆うなど荒れており、地区の青壮年組織「NEW田21」(正木卓夫会長、20人)が整備を発案。市内の業者から無償で資材を譲り受け、約5時間かけて参道や墓前にセメントを塗ったり、清掃したりして参拝しやすくした。○川谷の墓は、出身地の旧香我美町(現香南市)にもあり、正木会長は「できれば実家の墓も訪ねたい。9人が起居した屋敷は老朽化で倒壊しており、川谷の墓は歴史を伝える大事なシンボル」と話している。 [読売新聞 ]
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●『花外楼』に息づく歴史 伊藤博文、東郷平八郎、吉田茂… 書画など9月9日初公開●
○木戸孝允や伊藤博文らが立憲国家への移行を話し合った「大阪会議」の舞台で知られる大阪・北浜の老舗料亭「花外楼(かがいろう)」が、木戸の詩や伊藤の手紙の下書きなど、所蔵の作品約100点を初公開することになった。明治の礎をつくった元勲らの直筆の書などを通じ、大阪で繰り広げられた近代日本史の一端をかいま見ることができそうだ。9月9日午前11時〜午後7時。入場無料。(この日一日のみの公開)○花外楼は江戸時代末期、加賀の国から大阪に出てきた徳光伊助が、「加賀伊」として創業。明治8年2月に開かれた大阪会議では、政策の対立で下野していた木戸、板垣退助が、井上馨らの斡旋で、政府側の大久保利通、伊藤と会談。明治憲法制定や国会開設などの方針を確認し、木戸、板垣は政権に復帰することになった。○会議の成功に喜んだ木戸は当日、新たな屋号として「加賀伊」をもじって「花外楼」と命名。以後も明治の元勲ら多くの政治家が花外楼を利用した。財界人らも足しげく通ったため、やがて政財官界を結ぶ社交場となった。○花外楼には、そうした名士らによる書画が数多く残されているが、一般の目に触れることはまれで、最近になっても、歴史ファンらが所蔵品見たさに訪れるなど、公開を要望する声が多かったという。○5代目女将の徳光正子さんは「170年以上も北浜で商売を続けてこられたのも、みなさんのおかげ。常連客に限定するのでなく、多くの人たちに見てもらいたい」と、1日限り営業を休んで一般公開することにした。○公開するのは、木戸が明治6年に欧州視察から帰国する船中、故国の山河を眺めながら詠んだ詩を記した掛け軸や、伊藤が大阪会議の経緯を手紙にした際に残した下書き文、井上が画家に布袋の戯画を描かせたうえで書いた戯れ歌など、明治の元勲らが花外楼に残していった作品。○さらに、日露戦争で活躍した東郷平八郎、二・二六事件で暗殺された高橋是清、戦後の復興に尽力した首相・吉田茂らの書や、庭山耕園ら大阪で活躍した画家の作品なども展示する。○徳光さんは「幕末の志士から大阪画壇の重鎮まで、みんな花外楼に思い出を残していった。そうした花外楼の歴史を作品を通じて伝えたい」と話している。 [産経新聞 ]
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2006.7.30 更新
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大阪文化かわりばんこ −幕末作品連続上演企画−
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劇団潮流特別公演
幕末純情伝〜龍馬を斬った女〜
作/つかこうへい 演出/藤本栄治
沖田総司は女だった??
勤王・佐幕が血で血を洗う戦乱の世。女はなぜ人を斬るのか!
道ならぬ恋ゆえか、はたまた呪われた血ゆえか。
愛が、夢が、青春が激動の渦にのみこまれる!
「蒲田行進曲」「寝盗られ宗介」「熱海殺人事件」など数々の名作を創り上げた、つかこうへいが織りなす幕末の時代が
今よみがえる。
日時 2006年8月16日(水) 15:00公演 18:30公演 場所 そごう心斎橋本店14F そごう劇場 料金 前売り2000円 当日2500円 自由席 問い合わせ先 劇団潮流 06−6658−2315
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TSUZITSUMAぷろでゅーすvol.1
おはじき 〜元治元年、京都三条河原町東入ル、池田屋隣〜
元治元年に京都三条で起きた有名な「池田屋事件」。動乱の世の中からの『はじかれ者』達が、「池田屋」の隣の居酒屋にたまたま集まる。
そこに次々とやってくる歴史上の人物と思しき男女のおかしなやりとり。
幕末の青年達の滑稽なまでの一途な生き様を通し、現代日本に暮らす人間の憤った感情・哀れさ・強さ、そして生きることの辛さを描く。それを見守り続ける謎の老人の正体とは?
日時 2006年8月15日(火) 15:30公演 18:30公演 場所 そごう心斎橋本店14F そごう劇場 料金 前売り1500円 自由席 問い合わせ先 長澤 090−3941−4709
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2006.5.28 更新
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| ●亀山社中跡の閉館及び仮設展示場の開設について●
○かねてより私ども亀山社中ば活かす会の活動につきましては、ご協力を賜わり深く感謝いたしております。○このたび、都合により、平成元年から一般に公開しておりました亀山社中跡(長崎市伊良林2丁目7-25)を閉鎖することとなりましたのでお知らせいたします。○なお、亀山社中跡閉館に伴い、4月1日から、亀山社中跡近くに亀山社中資料展示場を開設しました。○展示品は坂本龍馬はじめ亀山社中・海援隊士、幕末の志士、幕末明治の長崎の風景などの古写真、龍馬の手紙の写しなど約50点(従来、亀山社中跡で展示していたものです)
○場所 長崎市伊良林2丁目9-2 若宮稲荷神社境内隣り、亀山社中跡から徒歩2分
○入館料は無料で開館時間は毎週土日、祝日の10:00-12:00 13:00-15:00
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| ●志士の魂戻った 中岡慎太郎像、刀のさや修復 京都霊山護国神社●
○勤王の志士の刀が復活−。京都霊山護国神社で刀のさやが根元から折られていた中岡慎太郎の銅像(高さ約50cm)の修復が終わり、4月29日、修繕完成披露式が開かれた。約50万円の費用は「京都高知県人会」やファンらが工面し、隣に立つ龍馬像(同約80cm)も塗り直され、関係者らが完成を祝った。○銅像は県人会初代会長の故・川本直水氏が1962年5月、2人の功績をたたえ、同神社内の墓のそばに私費で建立。その後、幕末ファンの記念撮影場所として親しまれてきたが、約3年前、慎太郎像のさや(約20cm)が何者かに持ち去られているのが見つかり、「武士の魂が失われたままでかわいそう」とファンらをがっかりさせた。○このため、県人会や2人のファンでつくる「龍馬慎太郎の両援会」が、龍馬の誕生日で2人が近江屋で襲撃された日にあたる11月15日に同神社で開かれた「龍馬祭」で、参加者らに募金の協力を呼びかけ、約27万円を集めた。○NPO法人「京都龍馬会」や慎太郎の故郷、同県北川村の有志らでつくる「中岡慎太郎先生顕彰会」も資金援助。同神社に設置された募金箱分と合わせ、1月上旬までに50万円を集めた。○さやの修復は3月中旬から始まり、今月25日に銅像本体とネジで固定、隣の龍馬像も含めて、全体を青緑っぽい色に塗った。○この日の除幕式には、県人会や龍馬会、大寺正芳北川村長、顕彰会浜渦純章会長ら約25人が出席。木村隆比古宮司が祝詞を読み上げ、玉ぐしを奉納した後、白布のかかった像を除幕した。龍馬の好んだ「夢」の字が記された絵馬をかける場所も新たに設けた。○杉本泰男県人会会長は「今年の龍馬祭は開催から100年を迎える節目。2人の銅像が立派な姿で迎えられるのもファンのおかげで、感無量です」と話した。 (4月30日 読売新聞より)
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| ●「龍馬検定」 高知県人会、神戸編を計画●
○高知県出身の県在住者でつくる「神戸高知県人土陽会」(約160人)は4月16日、神戸市中央区の神戸キメックセンタービルで会合を開き、神戸にゆかりの幕末の志士・坂本龍馬にちなんだ「龍馬検定・神戸編」(仮称)の実施に向け、準備していくことを決めた。来年4月の実施を目標にしており、準備組織となる「神戸海援隊」へのボランティア参加を募っている。○神戸には、龍馬が勝海舟の下で操船を学んだ「海軍操練所」の跡地があるなどつながりが深く、全国にPRしていこうと計画した。○検定の具体的な内容は今後検討するが、龍馬の甥(おい)の孫にあたり、龍馬に関する著書を出版している元神戸国際大講師の土居晴夫氏に問題作成などを依頼する。○同会の津野伸一氏は「高知や京都など龍馬ゆかりの地にも呼びかけ、各地ごとに検定を実施してもらい、すべてに合格した人には『龍馬皆伝』を贈ることも検討したい」と話している。(4月17日 読売新聞より)
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| ●幕末の新政権構想「船中八策」−宮津の嵯峨根良吉 龍馬より早く建議?●
○龍馬が1867(慶応3)年6月に示した新政権構想「船中八策」より1カ月早く、同様の内容をより具体的に記した意見書が、京都府宮津市出身の洋学者嵯峨根良吉(良起)によって薩摩藩に建議されたことを知ってほしいと、良吉の親せきにあたる男性が訴えている。このほど見つかった良吉の履歴にも、船中八策と酷似した内容が明記されており、専門家も「良吉と龍馬の接点の有無も含め、興味深い」とあらためて関心を寄せている。○男性は、京丹後市大宮町の岡田孝氏。親せきが保管していた良吉の履歴を記した古文書に、「1866(慶応2)年に薩摩藩に招かれ、翌年5月に『時勢改正』の意見書を藩庁に建議したのが契機となり、藩籍に加えられた」と記されているのを見つけた。○さらに、履歴には▽天幕合体の後、国政は天朝の主導権の下で上下二局の議政局により行われ、全国から130人の選良を出すこと▽江戸、京、大阪、長崎、箱館、新潟などへの学校設置▽西洋人教師を擁した人材教育−など、具体的な数字を盛り込んで改革を訴えている。○良吉は江戸末期の医者緒方洪庵が大阪に開いた「適塾」の門下生。岡田氏は「良吉は寺島宗則や榎本武揚と航海をともにしたこともあり、海外情勢に詳しい両者らから聞いた話をもとに時勢改正をまとめたのでは」と推測する。○船中八策は、大政奉還の原動力となったことで知られている。霊山歴史館学芸員の木村武仁氏は「船中八策は龍馬の完全なオリジナルではないが、多くの意見を聞き、一思想ではなく現実的な国策としてまとめ、時の幕府を動かしたことに龍馬の偉大さがある」としている。○適塾記念会の芝哲夫・阪大名誉教授は「立案項目の順序やその内容からみて両者は全く軌を一にしており、偶然の一致とは考えにくい」とし、「慶応3年春に鹿児島にいた良吉と長崎にいた龍馬の間に接触がなかったとはいえない」と、両者の関係を調べている。○嵯峨根良吉−1837(天保8)年、丹後国宮津で医者の息子として生まれた。1854(嘉永7)年、宮津藩の派遣で緒方洪庵の適塾に入門、蘭学を学び、江戸では砲術も教えた。1858(安政5)年に幕府の軍艦で鹿児島を訪れ、それが縁で寺島宗則の推挙を受け、薩摩藩に招かれた。1868年(明治元)年没。(3月11日 京都新聞より)
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●生誕200年記念 山田方谷の碑を建設●
○幕末の備中松山藩の藩政改革を行った陽明学者、山田方谷の生誕200年を記念した石碑2基が、出身地・高梁市中井町の方谷園に建てられた。○中井地区まちづくり推進委員会(塩田一弥委員長)などが郷土の誇りを顕彰しようと建設。碑は二つとも高さ75cm、幅85cm、厚さ10cmの御影石で、方谷が大局から物を見ることの大切さを説いた言葉「義を明らかにして利を計らず」「事の外に立ちて事の内に屈せず」を、それぞれ刻んだ。○方谷園は1910年、当時の上房郡教育会が造った日本庭園風の小公園。園内に方谷の墓、あずま屋などがあり、住民が清掃などをして管理、憩いの場となっている。○塩田委員長は竹ぼうきを手に訪れ、「方谷の教えは今に通じる。郷土の偉人を誇りに、町づくりに役立てたい」と話していた。(4月11日 読売新聞より)
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●咸臨丸の偉業たたえ 遭難の地に碑を建立●
○咸臨丸とサラキ岬に夢みる会(久保義則会長)は、同艦の歴史的偉業をたたえようと、咸臨丸が遭難した町内のサラキ岬に木製の碑を建てた。5月14日にはチューリップ祭りを開き、除幕式を行った。○町内産のヒノキの角材で、高さ約3m。終焉の碑と名付けた。碑文の内容は、咸臨丸子孫の会の佐々木寛会長が詠んだ「咸臨丸に捧げる詩」で、幕末に遣米使節の随行船として荒波の太平洋を渡った功績をたたえている。○碑文は、円照寺住職仁礼文秀氏が書き、前川直美氏が木づちとノミで刻字した。碑の両側には、会員の山本金次郎氏が寄贈したオンコも植えた。○同会は本年度の主な新規事業として、岬でヒマワリやコスモスの種をまくほか、遊歩道の設置、国道から岬へ入りやすくするための道路整備や、9月には咸臨丸終焉イベントを計画している。○念願の記念碑が建ったことに、久保会長は「多くの人の力添えや協力で建ったことにお礼の気持ちでいっぱいだ。会の歩みを力強く進めていきたい」と話している。(5月15日 毎日新聞より)
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2006.2.1 更新
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●桑田家住宅・龍馬の宿を登録文化財に申請へ●
○坂本龍馬が泊まった「桑田家住宅」(福山市鞆町鞆)を保存するため、市と所有者らが登録文化財の申請準備を進めている。○桑田家住宅は木造2階建て、延べ約200u。船の荷降ろしや食料の手配をする船宿として18世紀後半に建てられたとされ、通りや海から大きく見えるよう屋根の傾斜がきついのが特徴。1867年、いろは丸事件が起きた際、海難審判で鞆に滞在した龍馬が泊まった。○現在は桑田家の子孫が定期的に立ち寄っているが、梁や柱がシロアリに荒らされるなど、傷みが進んでいる。○登録文化財は国の補助は少ないものの、外観の大部分を保てば喫茶店やホテルとして使えるなど、建物を活用しながら保存できるメリットがある。子孫は申請に必要な基礎データを集めるため、昨年11月から建築士と建物の構造や傷み具合を調査。近所のお年寄りらから建物にまつわる話の聞き取りも始めた。○申請には今後、専門家や自治体による詳しい調査が必要。子孫は「歴史上の人物もかかわった家を守っていきたい」と話しており、一刻も早い申請を目指している。(1月29日 毎日新聞より)
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●旧魚屋萬蔵邸 南国市の企業が資材提供●
○福山市鞆町で進む坂本龍馬ゆかりの町屋「旧魚屋萬蔵邸」の改修工事に、高知県の企業が建築資材の提供を申し出た。工事を進めるNPO法人「鞆まちづくり工房」(松居秀子代表)は「龍馬が結んでくれた縁。これをきっかけに、鞆と高知の交流を深めたい」としている。○萬蔵邸は、龍馬らが乗るいろは丸と紀州藩の軍艦明光丸が衝突した1867年の「いろは丸事件」の際、賠償交渉を行った場所とされる。空き家になっていた建物をまちづくり工房が03年8月に購入。町並み保存の一環として寄付金を募り、04年10月から旅館兼土産物店に再生する工事を続けている。○支援を申し出たのは南国市の石灰製品製造販売会社「高知石灰工業」。地元紙に掲載された萬蔵邸改修の記事を読んだ濱田成昌社長が、このほど現地を訪れ、同社の商品であるしっくいの提供を約束した。同社は「龍馬の地元として、できることでバックアップを続けたい」とし、募金や企業へ協力を呼び掛けることも検討している。○柱の取り換え作業などの後、屋根のふき替えや内装工事に移る。提供したしっくいは壁などに使われる。松居代表は「限られた予算で改修しており、支援は非常にありがたい。完成後は高知の方を招くなどで感謝の気持ちを伝えたい」と話している。(1月15日 毎日新聞より
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●松平容保の不明の書状を発見●
○会津藩最後の藩主・松平容保が幕末、軍事総裁職を引き受ける際に家臣にあてた書状を県が入手し、4月から公開することになった。困窮する藩の現状を考えてためらいながらも、朝廷や将軍家への忠義から決意した容保のかっとうがうかがえる内容。長い間、行方不明になっていた貴重な史料だが、佐藤栄佐久知事が昨年末、古書店のカタログで見つけた。○県立博物館によると、書状は全長519.5cm、幅15.7cmの巻紙。文久4(1864)年、容保が筆記係に書かせた。この時、容保は京都守護職を解任され、幕府から軍事の最高職に当たる軍事総裁職を命ぜられている。容保は家老にあてたこの書状で、「新に大役を引き受けたならば、会津領内も私も共に困窮し、先々どうなるか苦心千万なことだ」と戸惑いを明かしている。それでも「朝廷から厚い御信頼を頂き、幕府からも度重なる命令を受け、また他のことと違って武事で辞退するのは道理に合わない」と拝命の決意を述べ、藩の守りを固めるよう指示している。同博物館の若林繁主任専門学芸員は「容保の並々ならぬ決意と時代の雰囲気を読み取れる一級品の史料」と評価する。○書状は戦前、会津若松市内で展示されたこともあったが、その後、行方不明となっていた。佐藤知事が昨年末、郡山市の古書店のカタログで発見。県立博物館で真贋を確かめ、約50万円で購入。戊辰戦争で「賊軍」とされた会津藩について佐藤知事は「会津藩はこれだけ国を思ったのに靖国神社に祭られていない。今の時代、一つの問題提起になる」と話す。4月から福島市の知事公館で一般公開(予約制)するほか、秋には会津若松市の同博物館で開かれる企画展で展示する予定だ。(1月19日 毎日新聞より)
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●おりょう、没後100年 命日前に信楽寺で●
○1月15日はおりょうの没後100周年。命日を前に「よこすか龍馬会」(磯野淑紀会長)が14日、横須賀市大津町の信楽寺の墓前で慰霊祭を行った。同会には、おりょうの生前の写真が掲載された明治時代の新聞も届き、100周年を盛り上げた。○「龍馬未亡人龍子」との見出しで報じたのは、明治37年(1904)12月25日の「東京二六新聞」。死去2年前の同年に撮影された64歳のおりょうの写真で、大きな目の和服姿が印象的。8回の連載記事では、おりょうは京都の医者の娘で、反幕府の龍馬らが医者宅に集い母が2人を結びつけたことや、寺田屋襲撃事件で負傷した龍馬を西郷隆盛らが見舞いに来た際、おりょうは龍馬愛用の短銃で鶏を撃ってふるまったことなどを伝えている。○新聞は、日本新聞博物館の南部哲郎主任研究員が今年1月開催の「明治の新聞人」の資料調査中に見つけた。「大衆紙で、講談調の読み物になっている。日露戦争当時なので、龍馬夫婦の人生を軍人の妻らに示す狙いがあったのかも」と南部氏は時代背景を説明する。○おりょうは龍馬の死後、横須賀に来て再婚し、1906年に死去。慰霊祭では、女性会員がおりょうが愛した中国楽器・月琴を演奏した。磯野会長は「貴重な写真と記事だ。おりょうは晩年になっても『私は龍馬の妻』とのプライドを持って生きていた」と喜んだ。(1月15日 毎日新聞より
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●募集 龍馬の歌 〜龍馬の活動の拠点であった長崎より発信〜●
○長崎龍馬会の前身の会「龍馬の銅像立つうで会」による長崎・風頭公園の坂本龍馬の銅像の建立から5月で17年。長崎龍馬会ではこれまで毎年銅像のメンテナンスや建立記念等の催しを開催してきたが、今年は全国でも初めての試みとして、会を事務局に実行委員会を組織して龍馬の活動の拠点であった長崎より「龍馬の歌」を全国で募集し、音楽祭を開催する。名も無き若者が日本の大改革を成し遂げたことは、生誕から170年経った今の時代でも多くの人々に勇気や希望を与えることだと思う。今回龍馬の歌を広く募集し音楽祭を開催することで、皆様が受ける龍馬からのメッセージやそれぞれの心の龍馬を歌詞やメロディーで表現する場、龍馬ファンも多いミュージシャン達が思い描く龍馬を音で熱く語り合う場、また、これからの日本を担う子供や若者達、より多くの人々が龍馬について学ぶきっかけにもなればと考えている。さらに、選ばれた歌が長崎での龍馬の歌音楽祭という一地点に留まらず、全国で愛される歌として広がっていくことを目指す。○激動の幕末を抜群の行動力や独創力で駆け抜けた風雲児、坂本龍馬。武器をとらずに日本を動かし、一介の素浪人でありながら多くの人々との貴重な出会いを重ね、自由な発想や世界観で数々の功績を残した龍馬。人生の応援団として人々の心に今も生き続ける龍馬。あなたのイメージする龍馬の歌を募集します。
○「龍馬の歌」全国募集−オリジナル作品に限ります。詞のみ・作曲のみでの応募も可。ジャンル・演奏形態(人数)・プロアマ不問。発表済みの曲でも可。
○応募方法@デモテープ(CD・MD・カセット・ビデオテープに録ったものに曲名とグループ名を明記)A写真B代表者の住所・氏名・年齢・連絡先電話番号・メールアドレスと、応募するグループ(または個人)の簡単なプロフィール(バンドの場合はパートを明記)C歌詞(詞がある場合のみ)を送付。
○応募書類送り先:〒852-8105 長崎市目覚町8-11-302 龍馬の歌実行委員会事務局
○締切:2006年3月31日必着 *応募書類の返却はいたしません。
○審査結果は5月14日(日)長崎市民会館文化ホールでの龍馬の歌音楽祭本選出場者にのみ4月中旬までに連絡
○出場者には一部交通費補助あり。都合により当日出演できない場合はVTRでの出演も可能。○選ばれた作品は龍馬会のイベントなどを通して全国へ発信する。
○龍馬の歌音楽祭:5月14日(日)13時〜長崎市民会館文化ホール 入場無料
○主催:龍馬の歌実行委員会 (事務局・長崎龍馬会) www.nagasaki-ryomakai.com
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