林 慎吾
1987年11月15日、大阪龍馬会は誕生しました。その年の8月に念願の高知へ友人と1週間行き、龍馬関連の史跡を存分にまわりました。そして龍馬研究会の存在を知り、大阪にも龍馬を語れるサークルがないのか調べましたがありませんでした。当時はあらゆる知識を吸収したい一身で様々な書物を読みあさっていました。その知識や龍馬に対する思いを語れる場が大阪にない以上、自分で作ろうと無謀ながらにも実行してしまいました。色んな人に相談しましたが、組織運営は大変だからやめたほうがいいとアドバイスをもらいましたが、若さゆえか・・・ そんな経緯で大阪龍馬会は誕生しました。
結成当時、会員は10名前後で、機関誌発行がメインでした。西尾先生が主催する史跡探訪に参加させてもらったり自分たちで何かをする力はありませんでした。
各新聞や情報誌に龍馬会の宣伝を載せてもらうようになりましたが、読売新聞の「泉」欄に掲載されたことが、龍馬会発展の起爆剤になりました。その後、会員数は急上昇し、自分たちでイベントを主催できるまでになりました。
創立5周年までの5年間は、濃厚な草創期でした。
1990年に「幕末純情伝」を稽古期間3日間で、台本を持ちながらの余興を総会当日に上演しました。
それから、芝居好きが集まって、毎年のように演劇に夢中になりました。92年には「坂本龍馬についての一夜」という龍馬の死後、閻魔大王の前で、龍馬の真実を探るテーマの深い作品をミノヤホールで上演しました。公演数日前には、関西テレビのニュースで取り上げられ、当日会場は超満杯!! 演劇とライブそして紙芝居と内容盛りだくさんの総会となりました。その公演を脱藩の道ツアーに持ち込み、河辺村(愛媛県大洲市)と高知市で上演しました。地方公演!!と張り切り、脱藩の道も歩くというこんなツアーは経験できない!! ほどすさまじかったですね。
脱藩の道では村上恒夫先生に大変お世話になり、素晴らしい解説と軽妙なおしゃべりはとても楽しく、おいしいお酒を存分に飲みましたね。吉松靖峰さんには高知市内を案内して頂き、小栗流の目録の生を見せて頂きました。
墓前祭や史跡探訪では西尾秋風先生に毎度のごとく、講師をして頂き、いろんな事をいっぱい教わりました。土居先生に案内して頂いた神戸史跡探訪は、8月の熱い最中、クルージングと史跡散策。8月の史跡散策は厳しいですね。暑かった思い出がよみがえります。
そして東京龍馬会との合同イベント。当時代表幹事の生野靖道氏と、合同で何かしたいね。この一言から始まり、ホスト役として京都に東京龍馬会の皆さんをお迎えしました。
大阪龍馬会といえば、当時=芝居という考えが定着しており、それならばと、西尾先生に龍馬の最後を脚本で書いて頂き、藤本会長(本業は劇団潮流の代表であり演出家・俳優)に演出してもらい、大原山荘の大広間で上演しました。屏風に掛け軸など、見事に再現し、暗殺シーンでは刀を振り回し、迫力のある芝居になったと思います。この合同イベントでは、大宴会のあとの二次会がすごかったんです。旅館にある酒をすべて飲み干し、旅館の方が、お酒を調達にいったそうです。お酒の半分は胃袋へ。あとは畳が吸ったような・・・。でも、龍馬という共通の話題に、老若男女、年代や性別関係なく、じっくり語り合うことができる。龍馬の縁で知り合い、そして友情を深めていく。いいもんですね。龍馬会って。その時実感しました。
この5年間で、機関誌は、「大阪龍馬会」から「Ryoma倶楽部」、そして「龍馬速報」に変わっていきました。45号まで発行していたのにはびっくりしました。創立から3年間は毎月発行で、4年目から隔月号に変わっていきました。当初の機関誌は、4頁ほどの簡素なもので、読むとこなしの情報誌でした。それが「Ryoma倶楽部」から中身のある機関誌になり、「龍馬速報」では今のスタイルが確立されました。
特に、太田編集長の尽力で、読み応えのある会報になりました。当時はアナログで、手作業での機関誌作成でした。懐かしい思い出ですね。
この5年間は、私にとっても、龍馬会にとっても激動の青春を駆け抜けていったような気がします。
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