2003年 イベント報告
第13回総会・講演会
 2月16日、大阪市中央区の中央青年センターにて、大阪龍馬会第13回総会と講演会を開催しました。48名の方にご参加いただきました。

 まず、総会は上田敏雄氏を議長に選出し、2002年度活動報告と決算報告を林事務局長より報告し、会計監査報告を五月女明子幹事からして頂き、質疑応答の後、了承。

 続いて2003年度活動方針案と予算案を林事務局長から提案があり、質疑応答の後、了承されました。その後、小休憩をはさんで、皆様お待ちかね坂本龍馬研究家の土居晴夫先生の講演会と続きました。

 龍馬の家族と題して、約2時間30分。とくに本題に入る前の話のマクラだけでも1時間以上あり、ここでしか聞けない貴重な話がいっぱいあり、十分堪能することが出来ました。「笑っていいとも!」出演話は特におもしろかったです。それに坂本家墓地改葬については、時間を割いて経過報告がありました。坂本家は歌人が多いお話や、町人郷士は当時存在し得なかった話、長寿家系の坂本家など存分にお話し頂きました。休憩なしでお話し頂いた土居先生、本当に有り難うございました。

●土居先生のお話はいかがでしたか。

  • 子孫としてまた研究家として次世代に語り継いでいかねば、というお気持ちが見えたような気がします。熱弁されていたお姿を見て、ご先祖様も敬愛しているのがわかり羨ましく思いました。
  • お元気で大変ユーモアがあり、口調は強くその強さの中に「坂本家」の子孫である自負心が伝わってきました。
  • 大変有意義、おもしろい講演会でした。一段と坂本家の勉強をしたいと痛感しました。
  • ぜひもう一度お話をお聞きしたい。とてもすばらしかったです。一族のお話を聞けて光栄でした。タモリのストラップももらえてうれしかったです。
  • 龍馬と和歌が今イチ、ピンとこなかったのですが、今回のお話で納得しました。先生には「商人」の血もしっかり流れているように思います。つくづく先生を敵に回したくないなと思いました。
  • お顔に似合わず辛口のトーク、大変面白かったです。歌人が多かったということは初めて知りました。
  • 丹中山の話など、本などに載らない裏話などをたくさん聞けて楽しかったです。
  • 81歳の高齢にもかかわらず、あい変わらずの弁舌で安心しました。
  • ユーモアと毒舌を交えて楽しいお話でした。
  • 大変ざっくばらんなお話でいろいろと楽しく聞けました。土居先生のお人柄もわかって今日は来て良かったです。
  • ユーモラスなお話も含めながら、楽しく時間を過ごすことが出来ました。もう少し時間があれば良かったと思います。
  • 土居先生については大変お忙しい中有り難うございました。又の機会を楽しみにしておりますのでお体大切にしてください。
  • 高知市の内情がよく分かりました。本番に入る前置きは長かったが面白可笑しかったです。(橋本知事は「クイズミリオネア」に出場している場合ではない!)土居先生が作成された家系図は見やすかった。多々秘話を聞かせて頂き楽しかった。
講師:土居晴夫先生

熱心に聞く参加者

3.16 大阪史蹟探訪
 雨天の中、長谷吉治講師のもと多数のご参加がありました。ずぶぬれになりながらの史蹟探訪、堪能して頂けたでしょうか? 

 雨にも負けず風にも負けず・・・冷たい雨を肩に受けながら最後まで真摯な態度で説明とご案内を有り難うございました。毎回参加するたびに素晴らしい資料パンフと下調べと、ものの好きこそといえども大変なご苦労と思います。幹事御一人御一人が知識の豊富さ専門的別分析に長けておられ感服。参加するたび、年を忘れハイテンションになります。感動や感激で歩くので疲れも出ず・・・。龍馬会に会えたことに感謝! 有り難う。

雨の中傘もささずに熱心に

          語る長谷吉治講師

参加者全員で記念撮影

福井イベントツアーに参加して 〜上げ膳据え膳、主婦一時の極楽〜
 私は小四、小三の年子の息子を持つ、年齢不詳の平凡な主婦である。その私が今回泊まり掛けのイベントツアーに初参加した。当初、福井ツアーの案内が届いても、端から「行けるわけがない」と思っていた。

 ある日、五月女さんと話していると「福井はいいよ〜。何年か前にも福井イベントがあったんやけど、丹巌洞!ここはな、ひとみちゃん時間忘れるで。いつも主婦頑張っているんやから、三輪ちゃん(ダンナの愛称)にお願いしてみたら?一緒に行こう!」と誘ってくれた。

 この魅力的な誘いにクラクラしつつ、直ぐ様、ダンナに相談したら「滅多にないことやからいいよ。何とかなるよ。」と快諾。息子たちにも承諾を得ようと話していくうちに、息子たちの目がキラーンキラーンと輝いてきた。世界でイチバン恐いお母さんが一晩いない=ゲームし放題でも叱られない・・と、鬼の居ぬ間に洗濯の気持ちだったのだろう。

 なにわともあれ、このような流れで福井ツアーに参加が決定した。

 龍馬のゆかりの深い福井に参加出来る喜びと、何より主婦業から一時的にでも解放されて、上げ膳据え膳飲み放題が最大の喜びである。が!しかし・・・出発前日から出発直前まで、倒れる程の忙しさの現実が待っていた。

 化粧でまだらになった顔を修正しつつ、集合場所のビックカメラ前に出発5分前に到着。

 バスに乗り込むと久々に会うメンバーに、つい頬が弛む。気分はすっかり史蹟散策モード。

 時間通りに出発。環状線を抜け、伊丹空港方面目指し、池田から中国自動車道に入った。池田と言えば地酒「呉春」が美味しいのよね。思ったより渋滞もなく、完成して真新しい舞鶴自動車道へ。

 順調に進むバスの中で、事務局長の林氏と、このツアーの主人公とも言える北浦氏のマニアックなアンケートのQ&Aが始まった。問題もマニアックなら正解賞品もマニアックだった。辞世の句の下の句を問題に出されてもなぁ・・・。

 途中の休憩地で早々と、出石蕎麦をお土産に買った。五月女さん曰く「出石蕎麦はここを逃したら、もうないで。越前蕎麦も美味しいけどな、出石蕎麦はイチバンやねん」。そう言えば、以前五月女さんからご馳走された出石蕎麦、トロリとした山芋と絡めて食べさせて戴いたけど、美味しかったなぁ。文句なく購入。少し重い。

講師:北浦半次郎氏

新保陣屋で熱く語る。

ここでの話は本当に良かった。

 出発から2時間半で小浜市に入った。若狭小浜藩士だった梅田雲浜は、美しい若狭湾からの眺望から「雲浜」としたと読んだことがある。解体新書で有名な杉田玄白も幼少期、小浜で過ごしたとのこと。幕末以外日本史を知らない私には「ほぉ〜」と感嘆の一言。私の後でも「ほぉ〜」の声。川口氏だった。

 バスの移動中「雲浜幼稚園」を発見。地元の民は、名前の由来を知っているのだろうか?雲浜の顕彰碑、歌碑、銅像、生誕地、墓と午前中は雲浜のフルコースであった。特に興味深かったのは、雲浜が学んだ藩校順造館だった。天誅組の書記官だった伴林光平の江戸での国学の師・伴信友も順造館出身とのこと。そうそう京都の東山霊山にも梅田雲浜の顕彰碑がある。猛虎?吉村虎太郎の墓の斜め上・・・もっと解りやすく説明したら、龍馬と慎太郎の墓まであと15段!と気を緩めがちな地点の左に、京都の市街を一望出来る休憩所がある。その突き当たりが虎太郎の墓である。余談だが・・・。

 昼食は小浜市のドライブインで。煮付けが美味しかった。一杯のビールがしみ込んだ。ここから敦賀市まで、バス移動し天狗党終焉の地へ。

 元治元年に徳川斉昭の元側近・藤田東湖の息子、小四郎らが挙兵した。時期が悪いのか、情勢が悪いのか・・・天誅組の大和義挙も、平野国臣が率いた生野義挙も悲しい結末を迎える。大和義挙も生野義挙も中には脱藩したり、家族を捨てたりと男だけの義挙だが、天狗党は女房子供らを含む家族も挙兵に随行している。推測だが彼女同伴の者もいたのではなかろうか?

 鰊を収納保存する倉「鰊倉」16棟に各50人収容し、食事は日に二度、握り飯だけ。囚われの身になった天狗党は幕府から派遣された田沼意次の子孫、意尊(おきたか)の鶴の一声で斬首が決定。2月2日を皮切りに数日間で、353人の命が地に返った。なんとも悲惨な事件。現在の日本は、死刑反対運動をしている世の中なのに。

 天狗党ゆかりの資料が展示されているレトロな造りの敦賀市立博物館は、過去、大和田銀行だったとのこと。

 バスに揺られて山奥に連れて行かれる。天狗党が最後に構えた新保陣屋跡である。ここはいい!ノスタルジックな思いに駆られる。

史料と史跡を確認

横井小楠と三岡八郎像「旅立ちの像」

隣にいるのは?

 高速に乗って一時間、ホテルにチェックイン。本日の予定はこれにて終了・・・ではなく、龍馬が福井で宿泊した莨屋旅館跡で越前龍馬会の皆様との懇親会が待っている。噂では、龍馬が食しただろうと思われる「龍馬弁当」が用意されているとのこと。

 越前龍馬会の皆様に四方を囲まれての宴会がスタートした。噂の「龍馬弁当」登場。蒸し鶏に粒マスタードを和えた一品があり、龍馬ってハイカラな物を食べてたのね、と思ったり。やっぱり越前蕎麦が美味しかったなぁ。日本酒も。一升瓶でお猪口に注ぐのは難しいので、お吸い物のふたに変更。莨屋オリジナルの日本酒の口当たりのよさに、飲み過ぎて脱落者一人。一瞬、聴覚が奪われたと隈元氏。ミニモニ河田氏はトランプでマジックを披露しているし、鍼灸師の寺田氏はここでも本業を発揮している。

 越前龍馬会はバラエティーに富んだ方々が多く、明治の侯爵を思わせる方や桂小五郎に似た方、全日本男子バレーの中垣内選手の先輩がいらっしゃったりと大いに盛り上がった。

 宴会終了後、千鳥足?の私たちを市内繁華街にある史蹟に案内して戴いた越前さんに、感謝。

 ホテル近くのコンビニで、朝食用のオニギリとビールとワインを買い込んで、二次会へ。とりあえず今日はここで、ノーサイド。

 翌朝はロビーで7時半集合。初夏とは言えど早朝は冷える。6時前には目が覚めてチョコチョコと身仕度をし、朝食をとってロビーへ。早朝散策は自由参加にもかかわらず、殆どの人が参加。やっぱり志が高いなぁ。

 昨夜のお持て成しもさることながら、早朝散策も越前龍馬会会長、直々に案内して戴いた。

 足羽川沿いの横井小楠寄留宅跡。1863年5月16日、龍馬はここを訪ねている。対岸には由利公正の家があり、龍馬と小楠は酒を飲んで足羽川を船で渡り、由利宅を訪ねたとのこと。故・司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の最終巻にも書かれているが、龍馬が京の近江屋で暗殺された同時刻、三岡八郎(由利公正)が足羽川にかかる橋を渡り終え土手にさしかかった時、突風が土手を襲い、三岡の懐中に大切に忍ばせておいた龍馬の手紙を落としてしまった・・・とある。また生前、龍馬と小楠が足羽川を渡った際「君がため 捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行末」と吟じた場所である。

新保陣屋前で記念撮影

越前龍馬会の牧田会長の案内

 桜の青々とした新緑のトンネルが続く足羽川沿いを抜け、橘曙覧(あけみ)生家跡へ。聞き馴染みのない名前だが、曙覧は歌人で、彼の歌はクリントン前大統領がスピーチの際「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見るとき」の引用で、一躍脚光を浴びた。

 途中、ポカリスエットで体内に若さとイオンを流し込む。不摂生した翌朝はコレがイチバン。

 九十九橋、中根雪江(松平春嶽の側近)宅跡・・・と市中を怪しい団体が群れをなし、歩く、歩く、疲れた。

  ようやくホテルに戻ったのは9時20分。チェックアウトは10時。30分くらいはゆっくり出来る。ベットに転がりたい。「集合時間は9時半です」と事務局長の声が静かなロビーに響いた。

 自分の部屋に戻ったのが24分。思わず電話の受話器を取り「三輪ちゃ〜ん、あのな、早朝散策が7時半からあったの。今まで。でね、もうあと5分で出発やねんで」とダンナに泣き言。

 チェックアウトをし、丹巌洞へ。素晴らし過ぎる!庭園の苔や杉、檜、松、もみじ、全てが。土蔵造りの二階建ての草庵で、かなり老朽化が進み、二組に分かれて見学をした。ギシギシと音を立てる室内はどこか懐かしく、さり気なく飾られた橋本左内の篇額。ここは松平春嶽を始め、中根雪江、橋本左内、由利公正が訪れている。丹巌洞には龍馬と由利公正の会見記が残されているらしい。

 橋本左内の墓所と銅像がある左内公園や、戦国時代に情熱的な愛を貫いた柴田勝家とお市の墓所、橘曙覧記念館、橋本左内生家跡など、次々とスケジュールをこなす。

 昼食はホテル近くのヨーロッパ軒。この店はソースカツ丼が名物。豚フィレを薄く叩き、目の細かいパン粉でカラリと揚げ、サラッとした秘伝のソースにくぐらせ、熱々のご飯に乗せた一品で、普通盛りでもボリューム満点。私の目の前に座った小川氏は何を思ったのか大盛りを注文し、最後は「食べるの手伝って」と哀願する目は涙目だった。

 昼食を終え、バス移動し松平の別邸「養浩館」へ。贅沢極まりない。障子を開けるとそこは広々とした池。ここで西郷隆盛と入水した月照上人の幻を見たような、もしくは平家の落人・・・よく目をこらして見ると上田氏だった。

越前龍馬会の皆さんと龍馬が泊まった莨屋跡にある料亭で。

丹巌洞は素晴らしい!!

 福井城跡、春嶽を祭神として建立された福井神社、中央公園の三岡八郎像、内掘公園の三岡、横井小楠像・・・写メール対応の私の携帯電話の画像は、墓と銅像でいっぱいになった。全体的に灰色。

 福井駅では石川県から参加された北村嬢が、上田氏に熱い投げキッスを残して颯爽と帰って行った。

 帰りのバスの中では疲れた体を癒したり、お喋りに花を咲かせたり、日本酒を飲み倒したりと様々であった。日本酒・慎太郎は美味しかったなぁ。

 何とも慌ただしい一泊二日の史蹟旅行だったが、かなり有意義で満足のいく内容だった。手厚く持て成して戴いた越前龍馬会の皆様に感謝です。そして講師の北浦氏、事務局長の林氏、お疲れ様。

「龍馬大学校・2003」報告
 夏・真っ只中の8月3日、大阪市中央区本町の「愛日会館」にて、恒例の龍馬大学校が開催されました。テーマは「冤罪」ということで、興味を持たれた方も多かったようです。暑い中、全国各地(東京・愛知・金沢・福岡他)から42名もの参加者にお集まり頂きました。

 今回の大学校は講師先生をお呼びする形式ではなく、4名の大阪龍馬会幹事にそれぞれの得意分野の「赤根武人」「小栗上野介」「天狗党」「赤報隊」の『冤罪』について自由に熱く語ってもらおうという企画だったのですが、予想以上の参加者の多さ・期待の大きさに講師陣はかなり緊張を強いられた様子。テキストもそれぞれに6枚〜10枚近くある内容を、持ち時間30分という時間内で話さなくてはならなくて、大変苦労されたようです。

(思いを充分話せないままに「はい、時間切れー」と言われてしまいガックリ肩を落とす講師もおられました)。なにはともあれ本当にご苦労様でした。

 資料と一緒に配られたアンケートには、今回の企画に対する厳しいご指摘や、頑張った講師陣へのねぎらいの言葉がびっしり書かれてあり、参加者皆さんの意識の高さが感じられます。今回はこの場でできるだけご紹介したいと思います。

●今回の龍馬大学校、全体を通しての感想は?

  • テキストの内容に対して時間が短かったですね。皆さんの話をもっと聞きたかったです。
  • 講師の知識の豊富さには頭が下がる思いですが、聞く方側の者としては、細かい説明よりも、テーマにそって的を絞った内容を話して欲しいと望みます。30分聞くのは結構疲れますので。
  • 各講師の情熱あふれる講義に感銘を受けました。幕末から維新について興味が次第にふくらんできました。今後は時間の許す限り龍馬会に参加させていただきます。
  • 今回は題材があまり知られていないだけに、背景からの説明になり、時間が少なかったと思います。今後は題材を2つくらいに絞った方が良いと思います。
  • お疲れ様でした。みなさんに共通して言える事ですが、テーマからかなり要点の絞り込み方がずれていたと思う。誰がどうして?何故?そこには、冤罪を受けてしまう行動や 背景、人物像、冤罪へと追い込む側の理由・利害・人物を含む大義名分となる思い、そ の白黒をきっちりと表現して欲しかったです。「冤罪」は現在にも通じるテーマです。  歴史の中でどういった人々がこの冤罪と向かい合ったか?興味深い所です。
  • 講師の皆様お疲れ様でした。とても楽しかったです。史料も役に立ちます。

●今後総会や大学校で聞きたいテーマ・講演は?

  • 陪審制のディベート合戦!最後は受講者に、どちらの説に納得したか挙手して決める。
  • 大久保利通をはじめ薩摩藩を詳しく。
  • 中岡慎太郎と土方久元の活動について
  • 「冤罪」このテーマは重いけど、また機会をつくって是非やって頂きたい。

●小川満也氏の赤根武人の冤罪についてどう思われましたか?

  • 昨年東行庵に行った時に、赤根武人のお墓だけ異様にきれいだったので、大変気になっていました。今日のお話を聴けて大変参考になりました。山口市内に顕彰碑があったと思いますが、あの碑はいつ頃建てられたのでしょうか?(←講師、ちゃんと答えてね)
  • お借りしていた(赤根の)本を読ませてもらっていたので、話の主旨はよくわかりました。でも小川さんの熱い思いはみなさんに伝わったのかなー?人前でしゃべるというのは本当難しいですね。ぼくにはとてもできないよ・・・。
  • 奇兵隊の内部での事実に再発見がありました。
  • わかりやすいテキストで赤根の事がよくわかりました。
  • なぜ山県らは赤根をそこまで嫌ったか。何を隠そうとしたのか。赤根に何かの罪を着せようとしたのか。
  • なぜ最後まで一緒に行動していた淵上は顕彰され赤根武人はされないのか?そこにはある人々の謀略があり、決して表舞台には上がれない(いまだに)悲しみを感じた。また、この人についてはゆっくり内容を聞いてみたい。
  • 30分という短い時間の中で良くまとめられたと思いました。赤根の京都時代の話を今度詳しく教えて下さい。
  • 今度赤根自身の人となりについて教えて頂きたいです。この方の人格に非常に興味があります。(つかみにくい・・・)
  • 赤根武人が行いたかった事、何を一番望んでいたかをもう少し詳しく知りたい。
  • 淵上郁太郎と板倉筑前介が交流していたと思いますが、赤根武人と板倉筑前介との接点はあるのでしょうか?
  • 初めて聞く名前、奇兵隊=高杉晋作ぐらいしか知識がなかった。良い勉強ができた。
  • 赤根はどうしたかったのか?なぜ冤罪になってしまったのかに的を絞って欲しかったです。声の大きさ、話し方はわかりやすかったですが、人物の全体像が浮かんでこなかったです。
  • 赤根武人は冤罪であることはよくわかりました。

●上田敏雄氏の小栗上野介の冤罪についてどう思われましたか?

  • 優秀な人材が本当にもったいないと思う。最後で本当に残念だと思います。どうもありがとうございました。
  • 講師ご苦労様でした。人物紹介も大事だとは思いますが、何が冤罪なのかをもう少しはっきりしてもらったら、もっと良かったと思います。
  • 日本のことを本当に危惧して、行動していた人だったのだなとつくづく感じました。「薩・長」だけの政府にしてはならない、とそのためだけに戦おうとしていたという話、感動しました。
  • よく調べてあり、感心しました。
  • 埋蔵金はあったのでしょうか。あったとするなら、どんな金でどこから出て、どれくらいあり、小栗はそれをどう使おうとしたと思いますか?(←講師、質問でーす)
  • 幕府のために一心に働き、時代の流れの中で帰農を覚悟している者が斬られなければならなかった理由などが少しわかりにくかった。
  • 結局は幕府幹部(私的には能力もないのに偉ぶった人達と思っている)にいいように利用されて終わった人なのかなと思った。有名な人であるので、本を読んで勉強してみた い気持ちになった。(今までは拒絶していたけど)
  • 小栗が冤罪とされる江戸を離れて権田村で亡くなるまでをもっと詳しく話して欲しかった。続きは会報にてお願いします。
  • 丁寧にお話して下さっていたなと感じました。メインテーマの部分の容量は少なかったかもしれませんが・・けれど非常に勉強になりました。
  • 冤罪のテーマ部分が弱かったように思います。小栗の想いをもう少し強く語ってもらいたかった。
  • 勝海舟の本やドラマでは、アメリカから帰って井伊大老の死を知り「アメリカには水戸藩士はいねえ」とタンカをきった場面がありますが、P1の4月21日にある様にアメリカで大老の死を知ったのが正しいのでしょうか?小栗は知ってて勝は知らなかったのでしょうか?(←講師、答えましょう)
  • 幕府側から見た小栗忠順と倒幕側からの見方が違う。今後勉強していきたい。
  • 細かい説明を読み上げるのが長かったです。小栗と言う人がどういう人物で、何で冤罪になってしまったのか? 個人的な感想なども話して欲しかったです。

●北浦康男氏の天狗党についてどう思われましたか?

  • せっかく水戸学から説明頂いたのに、時間がなくて残念でしたネ。でもよく解りました。
  • 水戸学についてよく整理されていて、すごく勉強になりました。ありがとうございます。
  • でも何が冤罪なのかが?もう一つはっきりわからなかったです。天狗党はぼくも好きですよ。武田金四郎について何かいい本あったら教えて下さい。
  • うっすらと話を知っている程度でしたが、ルーツをたどると徳川光圀までさかのぼるとは思いませんでした。天狗党に大変興味が出てきました。
  • 分かりやすかったと思いますが、やはり時間配分が悪かったと思います。只、背景の所は一番良く理解出来たと思います。
  • 田沼と一橋(水戸)の因縁を語って欲しかったです。天狗党に対する苛烈すぎる処置の真意など。
  • 水戸藩の幕末における事件などの伏線が実は江戸前期〜中期にまでさかのぼるとは思わなかった。御三家なのに・・・。また水戸思想や藩の歴史を考えると尊皇攘夷派が現れるのは必至であり、追討されるのは理不尽である。
  • 良くまとめられたテキストをありがとうございました。またゆっくりお話聞きます。
  • なぜ天狗なのでしょうか?福井まで行って、まだ全然パンフとか読んでない有様です。
  • 天狗党の冤罪という講義のオードブルのみ頂いたという感じでしたが、終了後15分の「追加講義」でメインディッシュまですべて頂きました。ご苦労様です!
  • 表紙の藤田小四郎の絵は誰が描いたのでしょうか?
  • 水戸学の考えが天狗党とつながっていくことがよく分かりました。30分で水戸学と天狗党両方は難しいですね。
  • 余談の話、(間に合った上にタクシー代を得して)良かったですね〜。

●林慎吾氏の赤報隊の冤罪についてどう思われましたか?

  • 全然知らなかったので、ちょっと解りました。あとはぶ厚い資料を読ませてもらって勉強します。どうもお疲れ様でした。
  • ありがとうございました。すごいなぁ。わかりやすかったです。
  • 正直のところ、名前すら初めて聞きました。勉強不足で申し訳ございません。でも大変わかりやすかったです。また勉強して出直してきます。
  • 江戸時代から現在の地元の方々に伝えられているエピソードは興味深かったです。
  • 総三を殺し江戸焼き討ち指示などのもみ消しをしたかったという見方はいかがですか?
  • 「冤罪か事件か」のお話、とても興味深く聞きました。家に帰ってからよく資料を読みたいと思います。
  • 総三がうまく利用されたような気がしました。
  • 新政府により、完璧に「悪役」にさせられていると思う。命令に背くのは悪いことだが、私的には冤罪だと思う。詳しくはテキストを読んで私なりに解釈したいと思う。
  • テキストが「冤罪」「事件」に対比していて、とても分かり易く読ませてもらいました。
  • 話がわかりやすくて、ビックリしました。わかりやすい本が大好きですが、わかりやすい話はもっと好きです。ありがとうございました。
  • 冤罪の影には当然ですが、誰かなすりつけた奴がいるのです。必ずその人物は生き残り名誉を得る。だから資料を見つけにくいのですね。死人に口無し。
  • 1月25日の赤報隊への帰洛命令は知りませんでした。冤罪か事件かという捉え方はおもしろかったです。
  • 赤報隊の事を全く知らなかった私が興味をもって聴けました。話し方も楽しくて、時間が短く感じました。よくまとまっていました。うまい!
  • 今まで赤報隊イコール先発隊が先走った、くらいにしか理解していませんでした。軍の規律的には事件と言えますが、“切り捨て”としてみれば冤罪ですよね。心なかばで死ぬのはくやしかっただろうなぁと思いました。
大阪龍馬会 新選組に触れる!
 10月の3連休ちょうど真ん中である12日、私達は新撰組史跡巡りを行った。この日はとても蒸し暑く、久し振りに半袖で歩いた日であった。

 まずJR大阪駅へ行き、ホームで新快速を待っているとどこかで見た顔が! なんと、大阪龍馬会の期待の星(!?)寺田氏であった。1人で集合場所までは寂しいなと思っていたので、見知った顔にホッと安堵。車内では、一国一城の主(?)となる寺田氏の白熱トークであっという間に京都駅に到着。彼の顔には、奔走して疲れているのとは別の清々しさがあった。集合場所である丹波口駅の改札口に着くと、すでに大阪龍馬会で乗っ取られていた!?

 島原の西門跡へと歩く。ここは現在石碑のみで、近くには卸売市場があるため車の通行量が多く、よく車に当たられるとの事。歴史的建造物も近代の生産物にはやはりかなわないようだ。次に向かったのは角屋である。この日のメインスポットと言っても過言ではないだろう。私は初めて入ったのだが、本当に素晴らしいところであった。ふすまなど黒くなっているのだが(当時は部屋にろうそくを灯していたのでススで汚れるのである)、そういうところが逆に心を引き寄せられた。揚屋建築ではわが国唯一現存している遺構との事で、歴史ファンでなくとも一度は見てほしい施設である。

 気持ちはすっかり吉野太夫!?いや深雪太夫!?のまま少し東へ歩き、着いた所は輪違屋だった。ここは今も置屋として営業されており一般公開はされていない、非常に残念・・・。

 輪違屋のすぐ近くに島原大門がある。と言えどあまり大きくはないが、当時は町と花街を隔てる精神的な部分での大きい門であったのだろう。この大門を見てなぜか私は『吉原炎上』の二宮さよ子を思い出した。

 次に目指すは西本願寺であるが、途中で立ち止まり講師の河田氏から狭い小路を指差し島田魁宅跡の説明を受ける。島田魁は相撲取りほどの巨漢であったという事なので、「横にならないと通れなかったやろな〜」と自分の身体と比較しながら(!?)想像してみる。

 大宮通を横切り、西本願寺に到着。今思えば、烏合の衆『新選組』が由緒正しい西本願寺の境内で、槍・刀など武器を振り回して訓練していたのだから僧侶たちは生きた心地がしなかったのでは?失礼極まりないやつらである。

 堀川通を渡るとそこは通称‘カッシー通り’。(すみません、私の中だけです・・・)

 なぜ‘カッシー通り’かは後ほど。別名(本名)は油小路通であり、今回の目玉その2という感じのところである。まずは、天満屋跡へ。どこかのおじさんが講師の河田氏に資料をくれた。ご夫婦で来ていたみたいだったがあの方たちは何をくれたのだろう?河田氏に聞くのを忘れていた。テキストの写真は3階建てであるが、当時にしてはハイカラな建物である。2階建てなら分かるが・・・旅館だったらしいので3階建てなのだろうか?などと推測しながら北小路の変跡を通る。

講師:河田晃彦氏

含み笑いをする上田副会長

 そして七条油小路へ。「ここにカッシーの死体があったのか〜、藤堂平助たちが戦ったのか〜」と思いを馳せてしまう。ちなみに、今の七条通は広い道路であるが当時はもっと狭かったとの事。そんな所で10人以上が切り合いをしていたのだから、御陵衛士の残党が無事逃げおおせたのが不思議なぐらいである。

 次に訪れたのが本光寺。ここは、伊藤甲子太郎が絶命したところである。正確には寺の門前が彼の終焉の地である。門をくぐったすぐのところに甲子太郎の石碑があるが、彼のお墓は泉涌寺の子院・戒光寺にある。私の記憶では、お墓はもともと新選組ゆかりの寺・光縁寺にあったが、明治に入り御陵衛士の残党(篠原泰之進たち生き残った者)がわざわざ墓を掘り起こして戒光寺に葬ったとの事である。それだけ御陵衛士にこだわった、いやこだわってあげたという事なのであろうか?甲子太郎は本当は尊皇派であったので。と、こういうのはまったくの余談であった。皆様すみません・・・。

 ふと違う方に目をやると、次期会長の上田氏が地元の方と何やら親しげに話をされている。さすがは次期会長!誰にでも愛される人柄は現会長から受け継がれているように思われる。

 しかし、この油小路通の方たちは本当に気さくな人ばかりである。私達のような史跡巡りの人にはとりわけ優しいのだろうか?という事は、伊藤甲子太郎という歴史上の人物を愛してやまないという事かもしれない。だからこそ私は、あえてこの通りを‘カッシー通り’と呼ばせて頂く。

 本光寺からすぐ堀川通方面へ折れたところが、実際甲子太郎が襲われた所であるらしい。ここで、お気づきかもしれないが私達は七条油小路からずっと、伊藤甲子太郎の最期を逆から追ったという形で歩いてきたのである。ここまで来てようやく彼の魂を感じることができた、様な気がする・・・。

 堀川通に出ると、道路の向かい側へ渡った一帯に近藤勇の妾宅跡があるらしいが、正確な場所が分からないという事でその場での説明のみであった。

 その後、この日最後のスポットである不動堂村屯所跡へと足を運ぶ。さすがに疲れもピークではあったが、もう一頑張りすればおいしい麦汁が私の喉を通るのだ。その気持ちだけで疲れた足を進める。塩小路通の西端がリーガロイヤルホテル京都でその前に最近石碑ができたのをご存知だろうか。さすがに真新しく、「京都の新しい新選組スポットとしてこれから有名になるんだろうなぁ、来年の今頃はもっと観光客が訪れるんだろうなぁ」と勝手な気遣いをする。(どんな石碑かは会報前号の伝言板ニュースを参照のこと)

 そして一行は、足はJR京都駅へ心は自宅もしくは2次会のお店へと向かわせたのだった。

 来年早々は、新選組史跡巡り第2弾の『壬生・大宮通編』である。その頃にはもうNHK大河ドラマは始まっている。勘違いなSファンと出くわさなければいいが、と今から心配する私であった。ちなみに、近藤勇役のSと当会事務局長は同じ名前である。上に書いたSファンとは、事務局長ファンではないということを念のため付け加えておく。ちなみに私は土方歳三ファンであるが、何年か前のドラマ『ひとつ屋根の下』の末っ子をしていた彼が演じるのである。

 期待外れにならなければいいが、と切に願う私であった。

二次会はいつものように盛り上がり

道の真ん中でも史跡の説明が始まる

墓前祭+東福寺史跡探訪に参加して
 大阪龍馬会にとって墓前祭は、恒例の行事であり、欠かすことのない行事。

 いつもの集合場所である八坂神社の前に多くの人が集まって、各自友達に挨拶したり、初めての人は自己紹介をしていたり、私などは昼食のおにぎりを食べていたり、いつもの場所でいつもの光景からはじまりました。皆が集まり八坂神社から霊山へ。これもいつもの光景である。普段運動不足のためか、霊山までの坂がこたえる。N氏の子供(Aくん)を抱っこしてあがったがために後から息切れしているO氏の姿。これもいつもの光景?

 霊山にて龍馬のお墓参り。お線香を供え 合掌ここからの紅葉はとてもきれいなのですが、今年は時期がずれたのか、少しまだらな咲き方で少し寂しかったです。お墓参りを済ませた後、電車に乗り東福寺駅へ。

 今回の講師は上田副会長。

 東福寺駅についてビックリ。紅葉の名所だけあってものすごい人!駅から東福寺まで歩くのも大変でした。東福寺は、鳥羽伏見の戦いにおいて、長州軍が本陣を置き鳥羽街道に向かった場所とのことでした。東福寺の山門を入ってすぐのところに退耕庵があり、退耕庵の前には、戊辰役殉難士菩提所との石碑がありました。講師の上田氏によれば、退耕庵と長州の歴史は毛利元就の時代から毛利家と関わっており、毛利家の菩提寺になっているとのことでした。退耕庵は、戦国時代豊臣側に加担したために、外様大名になった毛利家と同様に、厳しく押さえつけられていたが、今度は徳川を倒すチャンスになり、因縁というか積年の恨みをはらし、明治以降に栄えたとのことでした。

 退耕庵からしばらく歩いていくと、ものすごい人でなかなか前に進まなくなりました。初めて来た私には、最初なぜ混んでいるのかが解らなかったのですが、観光ガイドでも有名な通天橋が観られる場所と解り、納得しました。余りにもたくさんの人のために、私はそこで見事に皆とはぐれ、後から追いかけるはめになりました。

 鹿児島藩招魂碑。鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩は東寺に本陣をおいたとのことですが、この戦いで戦死した薩摩藩士は、薩摩藩の菩提寺である東福寺即宗院に葬られているとのことでした。(ただ当日は、その碑が別の立て札で隠れてしまっていました。残念でした)。即宗院の中の庭を見た跡、庭の横からそのまま奥に入って坂を上っていくと、裏に西郷隆盛密談の地(採薪亭の跡)がありました。西郷隆盛と清水寺の僧月照とが、井伊直弼打倒のため密議をおこなった場所の跡とのことでした。建物はありませんでしたが、ここに大きな体の西郷が、このスペースの建物に入っていたのかとおもうと、狭かったのでは?と思うくらいの大きさでした。まださらに上に登っていくと、薩摩藩士東征戦亡の碑が有りました。戊辰戦争で戦死した薩摩藩士を偲ぶために、西郷隆盛が自ら、この碑のための銘文を書いたとのことでした。

講師:上田敏雄副会長

真剣(?)に聞く参加者

 その次に行ったのが、中井桜州墓でした。採薪亭の跡の裏くらいにありました。お墓参りをしようと思ったら、中井桜州墓の下に、スズメバチの巣があったらしく、近くに寄れずに離れたところから、手を合わしました。

 即宗院から出たところに大きな三門(国宝)があり、あまりの大きさに見上げながら歩いていると、防長忠魂碑がありました。これも石碑としては大きい。長州藩殉難志士50回忌にその当時の退耕庵和尚の発願で、建てられたとのことでした。

 三門を挟んで反対側に東司(重要文化財)がありました。重要文化財のトイレと言うのもすごいと思いました。(笑)

 東福寺を出て少し歩いた山の上、仲恭天皇の御陵の下に、鳥羽伏見の戦いで戦死または戦傷死した、長州藩士の墓がありました。十代から二十代で亡くなった方々ばかりで、若くして亡くなっていることに驚かさされました。

 その後、抜け道?を通ってしばらくハイキング。途中、五社の瀧という社があり、一種独特の雰囲気がありました。

 そこからもう少し歩いて行くと、泉涌寺。泉涌寺にはいると木々が茂り、ものすごく落ち着いた雰囲気があり、木々のない開けた所に出ると、朝彦親王墓・淑子内親王墓・守脩親王墓がありました。朝彦親王は梅田雲浜と時事を密議し、安政の大獄で蟄居したり、公武合体運動を推進したり、幕府を援助する側に立ち王政復古大号令のあと参朝停止の処分にあったとのこと。

 お墓に手を合わした後、しばらく山登り。孝明天皇陵(後月輪東山陵)は泉涌寺の横をかなり上まで上がったところにあり、登り終わると、ため息が漏れるほど疲れました。孝明天皇といえば、明治天皇の父親で、幕末動乱の時代、天皇として、いろいろと歴史に関わった方で、岩倉具視により毒殺された?という説のある天皇!事実は分からないにしても、病死とのこと。ご冥福を祈りながら合掌。

 次に行ったのが、泉涌寺の塔頭・戒光寺の墓地。七条油小路事件の死者、高台寺党の4人の墓がありました。伊藤甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の墓。4人の遺体は壬生の光縁寺に葬られたが、明治元年に戒光寺墓地に改葬されたとのことでした。

 戒光寺墓地にてお参りを済ませた後、解散して、東福寺駅まで歩きました。

 今回のイベントは、平坦道では人混みの中でしたし、周りに人がいないところでは、坂道。市中引き回しツアーに匹敵するぐらい、ハードなスケジュールでしたが、幕末に関わったのが武士だけでなく、お寺の僧侶や、お公家さん達までが、時代の流れの中で、それぞれの思惑があり、その信念のために、戦った歴史を偲ぶことが出来ました。講師の上田副会長ご苦労さまでした。

霊山で記念撮影

東福寺の通司(共同便所)をのぞく