ここはどこ? 〜大坂の史跡探訪〜龍馬の足跡〜
薮 律子
今日は、11回目の大阪史跡探訪、「おさやん」こと講師
長谷吉治氏の出版記念イベントだ。昨年5月30日にあった「大阪史跡探訪〜龍馬と大坂〜」もとても楽しく勉強になった。
集合場所の西長堀駅で受付を済ませ、できたての
「大坂の史跡探訪〜龍馬の足跡〜」を受け取る。おお〜〜五月女さんの題字だ!ナイト龍馬会(2次会)で下書きを見せてもらっていた私には一層感慨深い。小ぶりでも内容は濃く、写真や地図で平易に書かれた本。題字はそんな内容を表すように優しくも凛と立っているように見えた。そして出版に携わったわけでもないのに、私までうれしくなってしまった。
スタートは大阪市立中央図書館。西長堀駅の目の前だ。このあたり一帯は
土佐藩大坂蔵屋敷だったとのこと。ここで実物の
水帳(御図帳)2冊が特別に閲覧できた。図書館3階の一般図書の棚奥、様々な資料に囲まれた一角にそれは置かれていた。
なるほどあるある、
北鍋屋町水帳には専稱寺、京橋弐街目水帳には京屋忠兵衛や堺屋源兵衛の文字が。もっとぼろぼろかと想像していたが意外ときれい。とはいえ結構虫食いがあって歳月を感じさせる。10名1組で順番に閲覧を終え、暑い館内を出ると雨もほとんどやんでいた。さすがうちの晴れ男はすごい!(って本人は何もしてないんですけどね)
図書館をあとにしばらく歩くと
土佐稲荷神社に到着。ここも土佐藩大坂蔵屋敷跡。桜の名所なのだが、今は雨のあと木々の新緑が美しい。ここには加藤高明(彌太郎の娘婿)や山内豊敷寄進の常夜燈(山内家の家紋入り)がある。
龍馬暗殺の日、慶応三年十一月十五日に献納された常夜燈もあった。まだ詳細はなぞとのこと。他に岩崎彌之助献納の青銅狛犬(台座裏面に名前が刻まれていました)、三菱マークの社殿、石碑は移動されていたが
岩崎彌太郎舊邸跡等々を観る。
またここは
堺事件に関わった29名のうち切腹する20名をおみくじで決めた場所でもある。処刑は堺妙国寺で行われ、何名かの土佐藩士が自らの内臓を居並ぶフランス水兵に投げつけたという。あまりの凄惨さに12番目の処刑で打ち切りが命じられたと伝わっている。切腹を免れた人達はよかったねと思っていたら、長谷さんからそれらの人々の後の人生は腑抜けのようになってしまったと解説があった。そうやろなあ。
その妙国寺は、わが町堺の中心部にある。大蘇鉄で知られる妙国寺でそんな壮絶な切腹が行われたとは… 大蘇鉄も泣くよなぁ。痛い、いたい、イタイ、身体も事件も…
土佐稲荷神社を出るとまん前は
「竜馬がゆく」誕生の地。司馬遼太郎氏の他、森光子氏、野村克也監督、石濱恒夫氏、鴨居羊子氏らが住んでいた。当時としては億ションだったというマンション。えっ?普通のマンションやんっていうよりアパート?いやいや横に回ってみるとその片鱗がうかがえる外観が。ちょっとオシャレ〜な建物でした。
億ションを横目に北上し長堀通りにでると西区役所につきあたる。この2軒隣にはレトロな細野ビルヂングがある(昭和11年竣工)。もとは石材請負業も行っていた建設会社のビルだけあって上質の石材がふんだんに使われ、当時、2階より上は白タイル張りだったそうだ。前には市電が通っていたというから、映画「always3丁目の夕日」の世界を想像してしまった。
ここから鰹座橋交差点はすぐそこ。土佐の人々が材木などの他、鰹節を商った鰹座があった。
「鰹座発祥の地」碑が立っている。さらに北へ向かうと
薩摩藩下屋敷と濱崎太平次のヤマキ大坂支店跡だ。
この東には
新撰組ゆかりの地、新町遊郭跡があり、近藤勇の愛妾深雪太夫がでていたという「折屋」と、かつては新町一番の揚屋(高級料亭)だった「吉田屋」跡を訪れる。深雪太夫はすらりとした長身の美女だったらしい。近藤勇ってイケメンでもないのに…(ファンの方ごめんなさい)やっぱり隊士ってモテモテだったんだなぁ。
また薩摩藩士は上・中・下・濱とあった大坂屋敷の中でも、遊郭にほど近い下屋敷に泊まりたがったという。新町遊郭といえば京都島原、江戸吉原とともに日本三大遊郭のひとつ。深雪太夫をはじめ、粋できれいな花魁がいっぱいいたのだろうな。ありんす〜とかあちきは〜とかいいながら…(大坂の郭言葉はちょっと違ったのかもしれないが)ツンデレな花魁にお国者の藩士などハマってしまう世界だったのか。
「素見(ひやかし)千人、客百人、馴染み十人、間夫一人」という言葉があるらしいが…全く男ってヤツは。いつの世も変わらない!! と、苦笑いした。
その後、場所は四ツ橋へ。ここには長堀川と西横堀川が交わる所に4つの橋が東西南北に交差して井桁状にかかっていた。そのうえ市電までが交差していたのだから、なんとややこしくも面白いスポットだ。
靱公園に到着すると15分の休憩。やった〜やっと休憩や〜 ベンチに座り込んでしまった。運動不足な私の両足はちょっと前からすでに限界。ふと横を見ると他の皆さんは立ったままで休憩している!!
みんなタフだ。っていうかだらしないのは私だけ?やはりここ靱公園も木々の緑が美しく、マイナスイオン満載の憩いの場所だ。
ここの北東隣には大阪科学技術センターがある。
五代友厚邸跡である。五代と大久保利通、小松帯刀らとの交友についての話を聞いた。歴史に名だたる人物がそこここを歩いていたのか。幕末にタイムスリップして、私も浪速の町を歩いてみたいものだ。
今いる入り口からは、けやき並木を見通せるのだが何かに似ている… とそこへ、長谷さんから、ここには昔何があったでしょうか、というクイズ。答えは米軍の飛行場。空襲で焼け野原になった跡にできたらしい。並木道の上にあったわけではないのだろうが、なんだかここ、滑走路にみたいだ! 場所を東側に移すと、そこはバラ園。色とりどり何種類もの薔薇が植えられている。なんてきれい!すばらしく薫ってくる薔薇もある。あ〜〜癒される〜 一気に疲れがふっとぶ気分だ。ここへきて太陽までが顔を出し、絶好の記念写真time。日焼けが気にかかる…
バラ園を出てなにわ筋を渡ると、
「関西大学発祥の地」の碑が。この横にある高層マンションには夫の友人が住んでいる。彼は知っているのかなこの碑のこと。関西大学出身ということだが。
次に江戸堀公園内にある
中天遊邸跡(緒方洪庵の師匠)、
花乃井の井戸へと向かう。花乃井の井戸は津和野藩亀井氏の蔵屋敷内にあり、当初は花乃井中学校(旧江戸堀尋常小学校)の南西部にあったが校舎改築の際、現在の北東部に移転した。
「慶応4年の明治天皇大阪行幸の折、津田別院行在所へ御料水として献上し、お茶を点てたところいたく褒め、「此花乃井」の名を与えた。古今和歌集、王仁(わに)の古歌「浪速津に
咲くや此の花冬ごもり 今を春べと 咲くや此の花」に、ちなんだと言われる。」もともと水質の悪い大坂では、珍しく良水であったという。
少し北へ歩くと、江戸堀川があった場所だ。かつて
薩摩屋半兵衛の先祖川端頼長氏がかけた題目橋(法華経信者だったことから命名)が架かっていた。その後、字も変わり大目橋(おおめばし)と呼ばれるようになった。今はマンションとパーキングがあるだけで往時を偲ぶものは何もない。史跡探訪の本の古写真と現場を見比べてみると川の町大坂なのだと改めて感じる。
次はここから東に折れ、フコク生命ビルに向かう。
大村益次郎寓居跡だ。益次郎はここ倉田屋作右衛門宅に住みながら緒方洪庵の適塾で医学を学ぶ。しかし下宿先の人が患者を次々と連れてくることを嫌い、短期間で大阪城追手門近くの漏月庵と名づけた一軒家に移ったという。
「私がその人でも、あんたらも診てもらい〜〜とばかりに自慢しまくって患者さんいっぱい連れてきたわ。だって偉いお人が下宿人なんやから…下宿先の人にしたら、きっと益次郎がドラマ「JIN」の南方先生のように思えたんやろな〜」と勝手な想像を巡らせていた。
薩摩藩大坂上屋敷跡(現三井倉庫)が見えてくると史跡探訪も佳境に入る。上屋敷跡をみながらあみだ池筋を渡る角には
宮武外骨の碑が。
滑稽新聞(明治33〜41年頃)についての説明文が添えられている。帰ってから早速、検索検索。色々とヒットした。外骨は本名で、17歳の時幼名亀四郎から改名。亀が外骨内肉の生物であることに因む。「過激にして愛敬あり」の編集方針を掲げ、風刺を武器に権力・権威を笑い飛ばす。筆禍で4回も投獄されたのに鋭い筆致は鈍らない。毒に愛敬ありだ。好きやなあこういう人。度を越した点も多々あったらしいが、ジャーナリズムの基本も信念のかけらもない日本のマスコミには辟易としているので、心の中で喝采を贈った。そして刊行された彼の新聞や雑誌を全部読んでみたくなった。
横道にそれたが、この南側には
濱屋敷跡(江戸堀2丁目あたり、お龍回顧録によると花屋敷)があったことが水帳によってわかる。
この後はいよいよ
薩万跡。外骨碑の向かい側、潟Tヨカ(大阪らしい。笑)の横からあみだ池筋にかかるあたりだ。
堺屋源兵衛跡、専稱寺に続き長谷氏が所在地を特定された。すごいなあ。
ここは自然堂、酢屋に続く土佐海援隊が設けた詰所(出張所)だ。薩摩屋万吉(万兵衛)の営む商家で岡内周太郎から佐々木高行宛の手紙やお龍の回顧録等で判明したのだという。回顧録には陸奥宗光が潜伏したことや龍馬の死後、お龍自身も宿泊したことが記されている。薩万の女将おりせのことも語っていて、侠義肌の熱心な勤皇贔屓だったらしい。龍馬伝でもぜひとも描いてほしかったものだ。
ここでひとつ疑問。この薩万と称する薩摩屋、先の薩摩屋半兵衛とは違う薩摩屋なのか? 薩摩屋半兵衛は川端姓だ。題目橋をかけた川端頼長を祖先にもつ。当時、薩摩屋と屋号を持った商家は十数件あったというから、違う薩摩屋なのだと理解した。
薩万跡を左にみながら北上すると、グランキューブ大阪(大阪国際会議場)に辿り着く。イベント最終地点だ。
後藤象二郎ゆかりの地で、近代紙業発祥の地「蓬莱社」跡の碑が国際会議場の庭内に立っている。ここで長谷氏の解説も最後となった。そして皆から感動と感謝の拍手がわいた。
その後、国際会議場内の喫茶店にて懇親会。事務局長の愛息君がうれしそうだ。夫も参加者の方との会話がはずみ、十分楽しんでいる様子。
今回の史跡巡りは、長年大阪に住んでいてもまだ歩いたことのないエリアだったし、自分なりの興味が広がる部分もあった。
前回より少し長いコースに疲れたけれど、余りある収穫があった。本当に参加してよかった。
最後に、途中拡声器の不調などアクシデントもあり、喉をからしながらもひとつひとつ丁寧に解説していただいた「おさやん」さん、ありがとうございました。天気も回復し、すごく楽しい史跡探訪でした。企画、お世話下さったみなさん本当にありがとうございました。
2月13日に劇団潮流稽古場にて、2011年度総会を行いました。2010年度の活動報告と決算報告の承認、会計監査報告、2011年度の活動方針案と予算が承認されました。
今年度は出版事業として「大阪史蹟探訪」の冊子は幕末や龍馬と大阪に限定して発行します。5月頃には完成予定です。
機関紙「龍馬速報」は119号(3月)120号(6月)121号(9月)122号(12月)に発行を予定しています。
イベントは下記の計画を立てました。
2月13日 総会+懇親会 劇団潮流けいこ場
5月22日 史跡探訪は現在、「大阪」
7月ごろ 大垣・美濃赤坂の和宮と所郁太郎関連史跡探訪
8月ごろ 龍馬大学校
10月8〜10日 脱藩の道ツアー(1泊と2泊コースを予定)
11月ごろ 墓前祭+史跡探訪は料亭シリーズを復活
総会終了後は、同場所で懇親会が始まりました。おいしい料理においしいお酒、定員オーバーの会場であちこちからくる熱気で汗ばむぐらいでした。とても楽しいひと時を過ごしました。
豪華景品はありませんでしたが、恒例の10大ニュースやクイズ大会など盛り上がりました。