大阪龍馬会 2010 10大ニュース

第10位 龍馬暦の影響か? 龍馬伝の影響か? 新入会員さんが増えました

第9位 皆勤賞 イベント・村田倫子さん 連続講座・薮正尚さん

第8位 いつも仲良し3人娘 鞆の浦史跡探訪では往復の道中、ひたすら喋りまくりました。

第7位 伏見イベント 野村亜津さん講師デビュー

第6位 大阪史跡探訪 毎年恒例の市中引き回し 今回は龍馬と大阪の史跡を堪能

第5位 大阪に幕末の石碑・看板が増えました

     2年前に「京屋忠兵衛」跡の銘板が天満橋に設置されました。
     天王寺の萬福寺に「新撰組 大坂旅宿跡」の石碑が建立されました。
     昨年・・・ 大阪に新名所 勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡
     小松帯刀墓所跡・陸奥宗光墓所跡 土佐藩住吉陣屋跡・坂本龍馬訪問の地

第4位 マナツの熱い大学校
      京都国立博物館学芸部考古室長・宮川禎一氏 
       演題:「千葉佐那をめぐって−山国隊からあの錦絵そして宇和島藩〜さらに明治の新聞記事へ・・」 
      歴史作家・桐野作人氏   演題:「龍馬暗殺の背景―岩倉具視書簡の意味―」
      高知県立坂本龍馬記念館主任学芸員・三浦夏樹氏  演題:「京都土佐藩邸関係史料について」 

第3位 長崎旅行珍道中
      俺をどこまで脱がすねん事件 拳銃密輸?事件 出島からやじろべえ事件

第2位 龍馬暦2011年版
      朝日・産経・高知・神戸新聞などに紹介されました。

第1位 龍馬伝 48話終了 賛否両論ありましたが龍馬を一年間堪能しましたよね。
      でも最終回のあの字幕にはガックリ・・・

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ここはどこ? 〜大坂の史跡探訪〜龍馬の足跡〜
                                                 薮 律子

 今日は、11回目の大阪史跡探訪、「おさやん」こと講師長谷吉治氏の出版記念イベントだ。昨年5月30日にあった「大阪史跡探訪〜龍馬と大坂〜」もとても楽しく勉強になった。

 集合場所の西長堀駅で受付を済ませ、できたての「大坂の史跡探訪〜龍馬の足跡〜」を受け取る。おお〜〜五月女さんの題字だ!ナイト龍馬会(2次会)で下書きを見せてもらっていた私には一層感慨深い。小ぶりでも内容は濃く、写真や地図で平易に書かれた本。題字はそんな内容を表すように優しくも凛と立っているように見えた。そして出版に携わったわけでもないのに、私までうれしくなってしまった。

 スタートは大阪市立中央図書館。西長堀駅の目の前だ。このあたり一帯は土佐藩大坂蔵屋敷だったとのこと。ここで実物の水帳(御図帳)2冊が特別に閲覧できた。図書館3階の一般図書の棚奥、様々な資料に囲まれた一角にそれは置かれていた。

 なるほどあるある、北鍋屋町水帳には専稱寺、京橋弐街目水帳には京屋忠兵衛や堺屋源兵衛の文字が。もっとぼろぼろかと想像していたが意外ときれい。とはいえ結構虫食いがあって歳月を感じさせる。10名1組で順番に閲覧を終え、暑い館内を出ると雨もほとんどやんでいた。さすがうちの晴れ男はすごい!(って本人は何もしてないんですけどね)

 図書館をあとにしばらく歩くと土佐稲荷神社に到着。ここも土佐藩大坂蔵屋敷跡。桜の名所なのだが、今は雨のあと木々の新緑が美しい。ここには加藤高明(彌太郎の娘婿)や山内豊敷寄進の常夜燈(山内家の家紋入り)がある。龍馬暗殺の日、慶応三年十一月十五日に献納された常夜燈もあった。まだ詳細はなぞとのこと。他に岩崎彌之助献納の青銅狛犬(台座裏面に名前が刻まれていました)、三菱マークの社殿、石碑は移動されていたが岩崎彌太郎舊邸跡等々を観る。

 またここは堺事件に関わった29名のうち切腹する20名をおみくじで決めた場所でもある。処刑は堺妙国寺で行われ、何名かの土佐藩士が自らの内臓を居並ぶフランス水兵に投げつけたという。あまりの凄惨さに12番目の処刑で打ち切りが命じられたと伝わっている。切腹を免れた人達はよかったねと思っていたら、長谷さんからそれらの人々の後の人生は腑抜けのようになってしまったと解説があった。そうやろなあ。

 その妙国寺は、わが町堺の中心部にある。大蘇鉄で知られる妙国寺でそんな壮絶な切腹が行われたとは… 大蘇鉄も泣くよなぁ。痛い、いたい、イタイ、身体も事件も…

 土佐稲荷神社を出るとまん前は「竜馬がゆく」誕生の地。司馬遼太郎氏の他、森光子氏、野村克也監督、石濱恒夫氏、鴨居羊子氏らが住んでいた。当時としては億ションだったというマンション。えっ?普通のマンションやんっていうよりアパート?いやいや横に回ってみるとその片鱗がうかがえる外観が。ちょっとオシャレ〜な建物でした。

 億ションを横目に北上し長堀通りにでると西区役所につきあたる。この2軒隣にはレトロな細野ビルヂングがある(昭和11年竣工)。もとは石材請負業も行っていた建設会社のビルだけあって上質の石材がふんだんに使われ、当時、2階より上は白タイル張りだったそうだ。前には市電が通っていたというから、映画「always3丁目の夕日」の世界を想像してしまった。

 ここから鰹座橋交差点はすぐそこ。土佐の人々が材木などの他、鰹節を商った鰹座があった。「鰹座発祥の地」碑が立っている。さらに北へ向かうと薩摩藩下屋敷と濱崎太平次のヤマキ大坂支店跡だ。

 この東には新撰組ゆかりの地、新町遊郭跡があり、近藤勇の愛妾深雪太夫がでていたという「折屋」と、かつては新町一番の揚屋(高級料亭)だった「吉田屋」跡を訪れる。深雪太夫はすらりとした長身の美女だったらしい。近藤勇ってイケメンでもないのに…(ファンの方ごめんなさい)やっぱり隊士ってモテモテだったんだなぁ。

 また薩摩藩士は上・中・下・濱とあった大坂屋敷の中でも、遊郭にほど近い下屋敷に泊まりたがったという。新町遊郭といえば京都島原、江戸吉原とともに日本三大遊郭のひとつ。深雪太夫をはじめ、粋できれいな花魁がいっぱいいたのだろうな。ありんす〜とかあちきは〜とかいいながら…(大坂の郭言葉はちょっと違ったのかもしれないが)ツンデレな花魁にお国者の藩士などハマってしまう世界だったのか。

 「素見(ひやかし)千人、客百人、馴染み十人、間夫一人」という言葉があるらしいが…全く男ってヤツは。いつの世も変わらない!! と、苦笑いした。

 その後、場所は四ツ橋へ。ここには長堀川と西横堀川が交わる所に4つの橋が東西南北に交差して井桁状にかかっていた。そのうえ市電までが交差していたのだから、なんとややこしくも面白いスポットだ。

 靱公園に到着すると15分の休憩。やった〜やっと休憩や〜 ベンチに座り込んでしまった。運動不足な私の両足はちょっと前からすでに限界。ふと横を見ると他の皆さんは立ったままで休憩している!! みんなタフだ。っていうかだらしないのは私だけ?やはりここ靱公園も木々の緑が美しく、マイナスイオン満載の憩いの場所だ。

 ここの北東隣には大阪科学技術センターがある。五代友厚邸跡である。五代と大久保利通、小松帯刀らとの交友についての話を聞いた。歴史に名だたる人物がそこここを歩いていたのか。幕末にタイムスリップして、私も浪速の町を歩いてみたいものだ。

 今いる入り口からは、けやき並木を見通せるのだが何かに似ている… とそこへ、長谷さんから、ここには昔何があったでしょうか、というクイズ。答えは米軍の飛行場。空襲で焼け野原になった跡にできたらしい。並木道の上にあったわけではないのだろうが、なんだかここ、滑走路にみたいだ! 場所を東側に移すと、そこはバラ園。色とりどり何種類もの薔薇が植えられている。なんてきれい!すばらしく薫ってくる薔薇もある。あ〜〜癒される〜 一気に疲れがふっとぶ気分だ。ここへきて太陽までが顔を出し、絶好の記念写真time。日焼けが気にかかる…

 バラ園を出てなにわ筋を渡ると、「関西大学発祥の地」の碑が。この横にある高層マンションには夫の友人が住んでいる。彼は知っているのかなこの碑のこと。関西大学出身ということだが。

 次に江戸堀公園内にある中天遊邸跡(緒方洪庵の師匠)花乃井の井戸へと向かう。花乃井の井戸は津和野藩亀井氏の蔵屋敷内にあり、当初は花乃井中学校(旧江戸堀尋常小学校)の南西部にあったが校舎改築の際、現在の北東部に移転した。「慶応4年の明治天皇大阪行幸の折、津田別院行在所へ御料水として献上し、お茶を点てたところいたく褒め、「此花乃井」の名を与えた。古今和歌集、王仁(わに)の古歌「浪速津に 咲くや此の花冬ごもり 今を春べと 咲くや此の花」に、ちなんだと言われる。」もともと水質の悪い大坂では、珍しく良水であったという。

 少し北へ歩くと、江戸堀川があった場所だ。かつて薩摩屋半兵衛の先祖川端頼長氏がかけた題目橋(法華経信者だったことから命名)が架かっていた。その後、字も変わり大目橋(おおめばし)と呼ばれるようになった。今はマンションとパーキングがあるだけで往時を偲ぶものは何もない。史跡探訪の本の古写真と現場を見比べてみると川の町大坂なのだと改めて感じる。

 次はここから東に折れ、フコク生命ビルに向かう。大村益次郎寓居跡だ。益次郎はここ倉田屋作右衛門宅に住みながら緒方洪庵の適塾で医学を学ぶ。しかし下宿先の人が患者を次々と連れてくることを嫌い、短期間で大阪城追手門近くの漏月庵と名づけた一軒家に移ったという。

「私がその人でも、あんたらも診てもらい〜〜とばかりに自慢しまくって患者さんいっぱい連れてきたわ。だって偉いお人が下宿人なんやから…下宿先の人にしたら、きっと益次郎がドラマ「JIN」の南方先生のように思えたんやろな〜」と勝手な想像を巡らせていた。

 薩摩藩大坂上屋敷跡(現三井倉庫)が見えてくると史跡探訪も佳境に入る。上屋敷跡をみながらあみだ池筋を渡る角には宮武外骨の碑が。滑稽新聞(明治33〜41年頃)についての説明文が添えられている。帰ってから早速、検索検索。色々とヒットした。外骨は本名で、17歳の時幼名亀四郎から改名。亀が外骨内肉の生物であることに因む。「過激にして愛敬あり」の編集方針を掲げ、風刺を武器に権力・権威を笑い飛ばす。筆禍で4回も投獄されたのに鋭い筆致は鈍らない。毒に愛敬ありだ。好きやなあこういう人。度を越した点も多々あったらしいが、ジャーナリズムの基本も信念のかけらもない日本のマスコミには辟易としているので、心の中で喝采を贈った。そして刊行された彼の新聞や雑誌を全部読んでみたくなった。

 横道にそれたが、この南側には濱屋敷跡(江戸堀2丁目あたり、お龍回顧録によると花屋敷)があったことが水帳によってわかる。

 この後はいよいよ薩万跡。外骨碑の向かい側、潟Tヨカ(大阪らしい。笑)の横からあみだ池筋にかかるあたりだ。堺屋源兵衛跡、専稱寺に続き長谷氏が所在地を特定された。すごいなあ。ここは自然堂、酢屋に続く土佐海援隊が設けた詰所(出張所)だ。薩摩屋万吉(万兵衛)の営む商家で岡内周太郎から佐々木高行宛の手紙やお龍の回顧録等で判明したのだという。回顧録には陸奥宗光が潜伏したことや龍馬の死後、お龍自身も宿泊したことが記されている。薩万の女将おりせのことも語っていて、侠義肌の熱心な勤皇贔屓だったらしい。龍馬伝でもぜひとも描いてほしかったものだ。

 ここでひとつ疑問。この薩万と称する薩摩屋、先の薩摩屋半兵衛とは違う薩摩屋なのか? 薩摩屋半兵衛は川端姓だ。題目橋をかけた川端頼長を祖先にもつ。当時、薩摩屋と屋号を持った商家は十数件あったというから、違う薩摩屋なのだと理解した。

 薩万跡を左にみながら北上すると、グランキューブ大阪(大阪国際会議場)に辿り着く。イベント最終地点だ。後藤象二郎ゆかりの地で、近代紙業発祥の地「蓬莱社」跡の碑が国際会議場の庭内に立っている。ここで長谷氏の解説も最後となった。そして皆から感動と感謝の拍手がわいた。

 その後、国際会議場内の喫茶店にて懇親会。事務局長の愛息君がうれしそうだ。夫も参加者の方との会話がはずみ、十分楽しんでいる様子。

 今回の史跡巡りは、長年大阪に住んでいてもまだ歩いたことのないエリアだったし、自分なりの興味が広がる部分もあった。

 前回より少し長いコースに疲れたけれど、余りある収穫があった。本当に参加してよかった。

 最後に、途中拡声器の不調などアクシデントもあり、喉をからしながらもひとつひとつ丁寧に解説していただいた「おさやん」さん、ありがとうございました。天気も回復し、すごく楽しい史跡探訪でした。企画、お世話下さったみなさん本当にありがとうございました。

2011年 -平成23年-

金茶寮での一コマ

11月13日 墓前祭+霊明神社+料亭「金茶寮」 講師:林 慎吾氏

墓前祭+料亭「金茶寮」                                                     村田倫子

 11月15日の龍馬命日の2日前の13日に大阪龍馬会の墓前祭が行われ、その日の朝は5時過ぎに起きて6時34分のバスに間に合うように家を出る。

 前夜より浮足立ち心の待つ京へ向かう。地下鉄と京阪電車であんぱんとコーヒーを朝食にしてホームのベンチで思う「倖せだわ」と。龍馬速報やインターネットなどで、このイベントを知って、参加したいとか共に歩いてみたいと思っても、なかなか出来なかったりで留まる人もおられることかと思うと、何だか申し訳ない気持ちと参加できる喜びと入り混じりますが、矢張り胸の中ではしゃいでしまいます。

 七条駅に着くともうすぐやと腰が浮き落ち着け落ち着けと深呼吸。

 京都護国神社境内では、よさこいソーラン連の若者が派手で、きらびやかな衣裳をつけ踊っていました。勢いのよい「よさこい」と熱気に煽られ、墓前祭には「ええじゃないか」と草葉の陰で龍馬らも大喜びしていたかも。中には(おもしろきこともなき世をおもしろく)を染め抜いた衣裳を着た若者連もいた。よさこいソーラン連をバサラ(婆娑羅)ともいうらしい。弾けるエネルギーがいいなぁと思う。

 昼食は「金茶寮」の懐石料理。堅苦しいのかと緊張していたが、そうでもなく和気藹々として栗おこわなど美味しくいただきました。ここは武市半平太の寓居跡で、半平太のいた部屋を見学させてもらいました。太い南天の床柱(珍しい)に誰がもたれたのだろうか? 半平太かな?(律儀な性格からまさか) 龍馬かな? 仲間も岡田以蔵もこの部屋に来たのかなぁ。うなぎの寝床といわれる細路を歩いたのかな。

 午後から歴史の説明を受けながら歩く。方広寺に着く。見慣れた釣鐘も今日は違って見えた。天誅組が集合場所にしたところであり感動しました。方広寺には七不思議があり、その一つが釣鐘の中に幽霊がいるといわれること。淀君の幽霊らしいとか。祟られては恐ろしいのでお賽銭を入れて釣鐘のそばに立つ。釣鐘の真下に立つ勇気もなく見上げていた。その時、事務局長Jr.龍ちゃんがピョコンと何気ない動作で釣鐘の真下に立った。うわぁ〜〜スゴッ〜〜勇気あるなぁ〜〜とJr.に感心するも、ふと落ちると安珍になると・・・老婆心が。すると誰かの声が。「安珍清姫になるで。龍ちゃん早く出なさい」と優しい声が響きました。JR.龍ちゃんの元気パワーのお裾分けをもらいました。

 三十三間堂の南大門を見る。天誅組がこの南大門をくぐって伏見に向かったそうです。 歩きました! 歩きました! 大股が張りました。とても楽しかったです!! 大阪龍馬会万歳! 幕末万歳!

 大阪龍馬会に入会して数年が経ちます。龍馬を通じて次々と教えていただくことの連鎖の広がりが積み重なっていきます。本当にありがとうございます。


墓前祭に参加して                                                         西尾シモ子

 2011年墓前祭は、久々の料亭ツアーとのこと。私は入会して10年ですが初めての料亭ツアーでした。今年も八坂神社で待ち合わせ。
 京都護国神社までの維新の道のキツイこと! 「来年は神社前で待とう」と思いながらやっと登りました。龍馬さん、慎太郎さん、藤吉さんのお墓に去年と同じデンファレランをお供えし、霊明神社、幕末志士葬送の道、池田屋事変殉難志士墓所跡、坂本龍馬お龍「結婚式場」跡、土佐志士寓居跡(大仏アジト)、扇岩跡付近などを歩き、一人では絶対行かないであろうところなので参加してよかったです。

 方広寺から豊国神社の石垣に感動です。愛媛史跡探訪には行けなかったのですが、楢崎さんに松山城の石垣の素晴らしさを教えていただきました。

 彦根城で教えていただいた、牛蒡積、落とし積、算木積。大阪城では野面積。首里城では、あい方積、布積があるとのこと。石垣とお城に興味を持たせてくださった楢崎さん、ありがとうございました。

 武市半平太寓居跡は床柱にもたれたのか・・・と思いながら金茶寮を後にしました。歩くのはしんどいけれども、とっても楽しい大阪龍馬会に2012年も参加したいと思います。
9月4日、真夏の大阪に桐野作人先生をお招きして、龍馬大学校をアネックスパル法円坂で開催しました。暑さきびしき折でしたが42名の方がご参加下さいました。

 演題は「龍馬暗殺再論−薩摩藩黒幕説批判と龍馬の死の影響」で、メインテーマは薩摩藩黒幕説の資料的根拠がないということ。今まで様々な小説で取り上げられ、某国営放送でもセンセーショナルなタイトルとして、インパクトのある薩摩藩黒幕説を取り上げてきた。先生は真っ向から資料的根拠を列挙しながら指摘された。あまりにも深い洞察でただただ目からうろこの内容でした。参加された方は存分に楽しまれ考えられたと思います。約3時間半、じっくりと語っていただきました。

 その後、京橋での二次会でも先生はしゃべり続けておられました。二次会での話も面白く、信長についてありとあらゆる角度から話をしてくださいました。本当に楽しい一日となりました。先生ありがとうございました。
9月4日 龍馬大学校 講師:歴史作家・桐野作人氏 会場:アネックスパル法円坂
「龍馬暗殺再論−薩摩藩黒幕説批判と龍馬の死の影響」
龍馬速報121号を12月25日に発行しました。 36頁

2月13日  総会と懇親会

所郁太郎生誕地

 2月13日に劇団潮流稽古場にて、2011年度総会を行いました。2010年度の活動報告と決算報告の承認、会計監査報告、2011年度の活動方針案と予算が承認されました。
 今年度は出版事業として「大阪史蹟探訪」の冊子は幕末や龍馬と大阪に限定して発行します。5月頃には完成予定です。
機関紙「龍馬速報」は119号(3月)120号(6月)121号(9月)122号(12月)に発行を予定しています。

イベントは下記の計画を立てました。
 2月13日  総会+懇親会 劇団潮流けいこ場
 5月22日  史跡探訪は現在、「大阪」
 7月ごろ   大垣・美濃赤坂の和宮と所郁太郎関連史跡探訪
 8月ごろ   龍馬大学校
 10月8〜10日 脱藩の道ツアー(1泊と2泊コースを予定)
11月ごろ  墓前祭+史跡探訪は料亭シリーズを復活
 
 総会終了後は、同場所で懇親会が始まりました。おいしい料理においしいお酒、定員オーバーの会場であちこちからくる熱気で汗ばむぐらいでした。とても楽しいひと時を過ごしました。
 豪華景品はありませんでしたが、恒例の10大ニュースやクイズ大会など盛り上がりました。

    龍馬墓前の像 龍馬と中岡慎太郎          熱気にあふれる護国神社境内            霊明神社での講話と休息

龍馬速報120号を9月28日に発行しました。 44頁

当日参加された方のアンケートです

○大変面白かったです。資料いっぱいつくってもらってありがとうございます。新発見が色々ありました。もう少し聞きたかったです。

○昨年は目からうろこがポロポロ出っ放しでしたが(とにかくびっくり状態でした)、今年は頭の中を整理しながら聞けました。龍馬の動きが具体的でわかりやすかった。会津の切迫した怒り、孤独もとても感じました。来年も桐野先生の話を聞きたいです。

○昨年に続いて講師ありがとうございます。今までの俗説が覆され頭が混乱するほど新しい知識を教わりました。史料も豊富で私では絶対入手できないものばかりあり、それらを読むだけでも面白いと思います。候文は苦手なので口語訳の解説文がほしいですね。

○熱のこもったお話、誠にありがとうございました。「大久保日記」を読んでいても、大久保らが龍馬を暗殺したとはとうてい思えず・・・。ここは素直に会津→見廻組説がうなずけるのではないかと思います。

○大久保と岩倉の書簡のやり取りや龍馬の土佐武器持込みの詳細な記録は大変勉強になりました。吉井や伊地知の考えや書簡がもっとあれば、流れがわかるのだろうなとも思いました。

○大変深い講義でした。土佐に千挺の銃を持ち込んだのは龍馬の愛郷心と強く話されました。薩摩藩黒幕説否定することに声が響くほどに力が入るのは桐野先生の強い愛郷心からなのでしょうと思いました。それぞれ何を思っているのか心情を探る推論を聞くことは面白く楽しく感心するばかりです。

○薩摩藩黒幕説をかなり遺憾に思っていらっしゃるように感じました。二次会に出席してお聞きしたいこともありましたが残念です。最近、藩というバックなしで動いていた龍馬の心中如何ばかりか。明るく大雑把なイメージですが孤独で淋しく、つらかっただろうとつくづく思います。

暑さで頭から水をかぶる
小学2年生の少年

蚊の大群襲撃

江馬細香退筆塚

所郁太郎像 手には・・・

梁川星巌・紅蘭像

贈従四位 所郁太郎君記念碑

板垣死すとも・・・

小簾紅園

7月31日 岐阜史跡探訪 講師:北浦康男氏
あ〜夏休み TUBE(中部)ツアー 〜Season in the sun〜
                                                  岡田 真実

 夏真っ盛りの7月31日、大阪龍馬会「岐阜史跡探訪イベント」が開催されました。中部地方の史跡イベントは中々レアですよね。私は前日にちょっと関ヶ原に寄り道。JR岐阜駅前広場の金ピカ織田信長像がまぶしく、太陽もまぶしい中、岐阜城公園にて皆様と合流しました。

 本日の講師:北浦さんの解説で、公園内の「板垣退助像」よりスタートです。あの「板垣死すとも自由は死せず事件」の舞台がここだったとは!いや〜全然知りませんでした。今の像は二代目ですが、初代の像の序幕式には板垣退助ご本人も出席されたそうで、テキストには像とご本人のツーショット写真が載っています(板垣さんかなり高身長?)

 公園には「明治大帝聖像」も。日本各地に明治天皇関係の史跡はありますが、直立した姿の像というのが、ちょっと珍しいそうです。

 さて、休憩後は金華山山頂の岐阜城には目もくれず、次の史跡に向かいます。林事務局長曰く「岐阜城は行こうと思ったらいつでも来れますから」とのこと。おっしゃるとおりで、この後に向かう先は、そうそう行けない場所ばかりです。あと、前日に関ヶ原に行ってきた話をしたら、「何人か『憑けて』きてませんか」と言われちゃいました。「まぁ古戦場だしなあ…落武者とかが…」と思いつつバスに乗り込みました。私の後ろの席は上田さんでした。

 そうなんです。今回は快適広々バスの旅です。♪バスバス走る、バスバス早い♪ところが、ここでちょいとアクシデント。昼食予定のお店にたどり着けず、危うくランチ難民と化すところでした。が、何とかびっくりドンキーでお食事。キャンペーン中とかで名古屋のアイドル「SKE48」のクリアファイルもゲットしました。因みに「SKE48」について「○ケベ48」とか「48は○8手の48」とか場末の居酒屋のような会話が某本日の講師さんと某事務局長の間で繰り広げられていたことは内緒です。

 昼食後は西へ向かって、瑞穂市の皇女和宮関連の史跡「呂久の渡し跡」「小簾紅園」へ。現在では地形が全く変わっていて「渡し」感は感じられないのですが、案内図をみてイメージを膨らませます。現在の渡し跡は呂久川(旧名は揖斐川)の東岸。流れの速い呂久川を西から東へ渡るには、まず上流へ90m程遡って、川の流れを下り対岸へたどり着いたそうです。

 文久元年、公武合体で江戸へ向かう和宮様がここを御座船で渡った際には、東岸の馬渕孫右衛門宅のもみじの紅葉が見事だったそうです。その時に詠まれた歌が「落ちてゆく身と知りながら もみぢ葉の人なつかしく こがれこそすれ」。切ない歌ですね。渡し跡と馬渕宅跡が現在、「小簾紅園」となっており園内には大きな歌碑が建てられています。少し離れた所には馬渕宅の長屋門も保存されていて、当時の雰囲気が感じられました。

 この日は園内の休憩コーナーにいれていただき、しばし休憩。和宮様が利用したものと同型の籠が展示されていました。ツアー参加のリアル和宮様のような若いきれいなお嬢様と元お嬢…もとい、今でも現役バリバリお嬢様が試乗されていましたよ。

 続いてどこをどう走ったのかわかりませんが、たどり着いたのは大野町の「贈従四位 所郁太郎君記念碑」 道路沿いに「幕末の志士 所 郁太郎」と太字で書かれた幟もひるがえっています。ちょっとした広場の奥に大きな記念碑が建っていて、石の形がちょっと変わっていておもしろい。この記念碑は、井上馨の孫である井上三郎の建立によるもので、建てられている場所は、郁太郎が養子に行った先の所伊織屋敷跡だそうです。

 私は、所郁太郎さんといえば「井上馨ちゃんがメッタ切りにされた時に助けた人。何か畳針で縫ったらしい」というその一瞬の活躍しか知らなかったのですが、当然、生まれてから亡くなるまでの人生があるわけで…大坂の適塾で学んでいたり、奇兵隊に加入したり、享年わずか28歳だったり…今回のツアーでは、生誕地から、お墓まで巡ることができ、感慨深いものがありました。うん。この人のゆるキャラを作るならネーミングは「とっとこ郁太郎」ですね。
このあたりで大粒の雨がボテボテ降ってきましたが、次の史跡へ向かいます。

 再び、どこをどう走ったかわかりませんが、大垣市の「華渓寺」へ。雨があがってギラっとした日差しが照りつけます。入口に冷たい湧水が湧いていたので、皆さん手を冷やしたり、喉をうるおしたりしていました。龍之君は頭からかぶってましたね。暑かったもんなあ。

 この地は戦国時代には曽根城という城で、春日局の父、斎藤利三が城主稲葉一鉄の重臣として住んでいたそうです(春日局はここで生まれたと言われているとか) 

 そして、梁川星巌ゆかりの地でもあるんです。境内には星巌が12歳で両親を亡くした折りに祀った「庚申塔」と「梁川星巌記念館」があります。記念館に入って正面には星巌・紅蘭夫妻の肖像画がかけられているのですが、かなり顔が怖い。星巌さんは仙人みたい、紅蘭さんはメチャ怒ってますねえ。「ねぇ、怒ってる?」ってSKE48の松井玲奈ちゃん(ゲキカラ)にきいてもらいたいです。あと、星巌さんがコレラで亡くなった際の説明文があるんですが、この文章がなんか飄々としていて面白いんですよ。声に出して読みたくなる面白さです。
 
 お寺に上がって住職さんから星巌さんについてのお話をお聴きしました。教師をされていたとのことで、堂々としたお話っぷり。因みに星巌さんが生まれたのはフランス革命が起こった1789年だよ。皆覚えたかな!私は「紅蘭さんの肖像画は何で怖い顔なんですか」とアホな質問をしてみたところ、「ご夫妻はよく夫婦ゲンカをしていて、その声が隣の佐久間象山先生のところまで聞こえたので、常に怒っているイメージがあったのでは?」とのことでした。

 お寺をぐるっと回って地元の人たちの憩の場、曽根城公園へ。芝生の緑が美しい公園中央の「梁川星巌・紅蘭像」前で記念撮影。先程の肖像画と違って旅立ちをテーマとしたこちらの像は、青春爽やかカップルって感じですね。

 細い道を通って「梁川星巌邸跡」「紅蘭女史生誕の地」へ。紅蘭さんの方の石碑が赤っぽい石で作られているのが印象的でした。ご近所さんの師弟愛年の差カップル(32歳と17歳で結婚)って何かイイなあとちょっと思いましたよ。

 西へ向かって「中山道 赤坂宿」へ。旧街道らしい緩いカーブの道沿いに風情のある建物が並びます。赤坂宿といえば「お嫁入普請」。江戸入りをする和宮様ご一行に見栄えが悪くないように、突貫工事で建物の街道に面した面のみを2階建てに建造したのこと。和宮様一行が宿泊するのは、文久元年10月25日の一日限りなのですが、今に伝えられる一大イベントになったのはすごいというか不思議ですね。街道沿いの「探訪館」には、色々な資料がありガイドさんにも説明していただきました。和宮様のお食事の食品サンプルなどを見ると、歴史の1コマが本当にあったんだなあと「その1日」がリアルに感じられます。

 街道沿いには「所郁太郎生誕地」の石碑。ここ赤坂宿の醸造家矢橋家の四男として生まれたそうです。隣の建物がかなり古いようですが、何でも瓦の葺き方からすると郁太郎さんの時代からある建物かもしれないとのことでした。郁太郎さんと同じ瓦を我々が目にしているっていうのもスゴイ。時間って続いているんだなあ、これからも続くんだなあって思います。

 生誕地の後は妙法寺の「所郁太郎の墓」へお墓参り。実父である矢橋亦一さんのお墓、大垣藩を勤皇に統一した「戸田三弥の墓」もあります。

  「赤坂宿本陣跡」は公園になっており、本陣跡の石碑・和宮の碑の他、所郁太郎さんの銅像も。郁太郎さんの像は全体的にツルンとした感じ。右手に何か持っていますが、畳針!じゃないですよね。なお、本陣跡の建物の遺構としては、当時の門が矢橋家住宅(このあたり矢橋姓が多い)に移築されたそうです。街道から脇道側に入ると特徴的な楔?杭?が打たれた木壁が続く重厚な建物です。因みに「脇本陣跡」の方の母屋は今でも屋号を変えて旅館として営業しているそうです。

 赤坂宿を離れ、やっぱりどこをどう走ったかわかりませんが、線路沿いを歩いて急な階段を上るようです。スコティッシュテリアと散歩中の地元マダムに珍しそうに「何の集まりですか?」と聞かれました。あやしぃ集団に見えたかな。ところで最後の目的地「江馬細香退筆塚」江馬細香さんて誰なんですか??

 「江馬細香は私の妻になってくれたかもしれない女性だ!」by頼山陽さん(声:池田秀一)
ガンダムネタですみません。え〜結局は山陽さんの○○のせいで結婚には至りませんでしたが、芸術を通じて親交は続けたそうです。詩画という芸術世界に生きることを目差し、さらにそれを貫くというのは、1787年生まれの女性としてはすごいことですよね。細香さんが生前愛用していた筆を埋めて碑を建てたのがこの退筆塚です。

 草の生い茂る道を行くことしばし。いやもうがいっぱい。若い生き血が吸われる、吸われる。ホントにこんなところに碑があるのかしらというところに草ぼうぼうの状態でありました。碑の半分近くが草に覆われています。え〜こんな状態でいいの?もうちょっと大事にしないとだめでしょう。大垣市文化財保護協会さんお願いしますよう。あと、あれだけ皆が蚊に刺される中、全然刺されなかった人もいたみたいですが…逆に心配です!

 そんなわけで、大阪へ向かって出発。お疲れの様子の皆さまはウトウト。途中で買い物袋と肘掛と片岡さんの三つ巴のバトルが繰り広げられたりしつつ、おやつをいただきながら、西へ。千里中央あたりであの記録的な集中豪雨に遭遇しましたが、それも難波に着くころには無事あがりました。

 そして最後の最後に林事務局長がやってくれました。次回イベントの告知で「9月4日の龍馬大学校には『桐野利秋さん』をお迎えして…」って、ええ〜っ!?いやお迎えしてみたいけど…車内大爆笑でしたね。

 なかなか個人では行けないマイナー箇所満載の今回のツアー。講師の北浦さん、暑い中、わかりやすいご案内ありがとうございました。バス旅は快適ですので、次回からも期待します。バスの運転手さんもなんじゃこりゃのところばかりでビックリだったでしょうね。皆さまお疲れさまでした。


○岐阜史跡探訪は本当に素晴らしいイベントでした!岐阜にこんなに見所があったとは。北浦講師の熱弁もさすがだ!と思いましたが、いつも通過してしまっていた岐阜を再発見できた事もとても良かったです。
 今回、特に私は医師であり、遊撃隊の参謀でもあった「所郁太郎」にとても興味を持ちました。講師も話していた、「美濃浪人」是非読みたいです。あと、梁川星巌・紅蘭の肖像画も忘れられないくらい強烈な印象を受けましたが、最後の「江馬細香退筆塚」へ向かう山道も忘れられない思い出となるでしょう。ぶよ?!の大群に襲われそうになり、長島さんの娘さんと、一心不乱に駆け下りました(涙)。(林美奈子)


○暑さ真っ盛りの中岐阜史跡探訪に参加しました。いきなり<へまをやる>を又々知らずのうちにやってしまったM某です。講師の北浦さん、参加された方々ごめんなさい。ウルトラ級マニアック!横を向いてもマニアックな前を向いてもマニアックな、後ろを向いてもマニアックな史跡探訪でした。とてもよかったです。
 余程でない限り行くであろうかと思うほど場所は安楽寺(江馬細香退筆塚)です。初めて耳にしたお名前であり、初めて車より降り立った地(いや今回の岐阜の地でさえ私のとっては初めての場所ばかり)です。
 半分山登り状態の中、蝉しぐれを背に受け、夏草生い茂り、ツルが時折足に絡んでハッとさせられたりしながら歩き登りました。草鬱葱の中に「江馬細香退筆塚」が・・・・・ 参加の皆さんは藪蚊と闘いながら覗き込むように見てきました。汗して下る藪道は山風が心地よく汗を吹き流してくれるような涼気さでした。
 行の車窓からですが、宝暦治水で有名な暴れ川を見たことで、難波を出発からの昂揚の心が一層自身を盛り上げました。足が達者のうちに参加してみようの意気込みだけで参加してる感もなくはなかったのですが、連れて来て頂き本当に良かったです!本当に感謝!!
 行く前からは周りから岐阜は雨といわれての出立でしたが、何のことはなし。流石大阪龍馬会です。曇天の中に時折カンカン晴れ。帰路も深草を過ぎたころに土砂降り。でも解散地ではすっかり雨も上がっていて皆さんの笑顔に送られて無事帰宅しました。興奮した夜でした。本当にお世話になりました。(M某)

本日の講師 北浦さん

華渓寺での住職の講話

後藤象二郎ゆかりの地
近代紙業発祥の地「蓬莱社」跡

好評発売中です

薩摩藩蔵屋敷跡

大村益次郎寓居跡

関西大学発祥の地碑

薩摩藩蔵屋敷(下屋敷)跡付近

竜馬がゆく 誕生地(執筆地)

土佐稲荷神社にて説明を受ける

大阪市立中央図書館前にて

機関紙「龍馬速報」119号を4月2日に発行しました

上 梁川星巌邸跡
下 紅蘭女史生誕地

梁川星巌・紅蘭銅像前で記念撮影

うつぼ公園での記念写真(暑かった)

5月22日 大阪史跡探訪VOL.10 講師:長谷吉治氏