南に下って、木戸孝允旧跡「石長松菊園」。病に倒れた木戸孝允の終焉の地となった場所です。石長松菊園側とお宿せきちょう側の2か所に「木戸孝允旧邸」の石碑がありますが、下部の文字がツツジの生垣で見えなくてちょっと残念。また、京都市職員会館敷地内の当時から残っている建物の前には「明治天皇行幸所木戸邸」の石碑が建っています。明治天皇の碑は各地にありますが、一個人のお見舞いに来た際の記念という点でここは価値がありますよね。そう言えば、こちらの旅館は修学旅行生の宿となっていましたが、中に幕末オタの学生さんがいたならウハウハ気分ではないでしょうか?

2009年(平成21年)

●吉田松陰について話を聞いて新たな発見がありましたか?
●北浦先生に感想をどうぞ
 講師の片岡さん、雨の中のご案内およびわかりやすいテキストの作成をありがとうございました。当初は緊張気味かな?とも思いましたが、熱い想いが伝わってきました。後半にいくにつれすっかり落着いた様子で、流石だと思いました。そして、事務局長をはじめとする会の皆さんのあたたかいバックアップにも愛を感じました。

 鴨川縁の優雅な世界から繁華街方面に向かう中、徐々に幕末のダークな世界へと至っていく流れに感慨深いものがありました。また、今回巡った史跡のすぐ側では日々の暮らしが普通に営まれているあたり、京都という町の奥深さを感じた一日でもありました。そしてインフルエンザが大事にならなくて本当によかったです。

11月15日 墓前祭+史跡探訪−嵐山嵯峨野  講師:林 慎吾氏 16名

 木屋町通りをさらに南へ下り、本間精一郎遭難之地。この石碑の奥の路地で、文久2年、本間精一郎は田中新兵衛、岡田以蔵らによって天誅の名のもとに惨殺されたそうです。ここにはその時に岡田以蔵がつけたと言われている刀傷が残っています。以前は通り抜けができる路地だったそうですが、今では扉があり通常は見ることができません。今回は扉を開けていただいており、見学することができました。柱にカッと刻まれた刀傷の跡は、路地の細さとそろそろ時刻的に薄暗くなりつつある事との相乗効果もあって非常に生々しく感じられました。
 再び河原町通りに出まして中岡慎太郎寓居之地。土佐藩御用達書店「菊屋こと鹿野安兵衛宅」白川の陸援隊に移る前に慎太郎が隠れ住んでいた場所です。この菊屋の少年、峯吉君が近江屋事件では重要な証言者なります。現在この場所は、あぶらとり紙専門店になっていて、お店の前に石碑があります。この石碑、以前は露地の奥に置かれていたそうです。でも、あぶらとり紙と慎太郎さんの組み合わせも何だか不思議ですね。
 続いて土佐藩邸跡。川沿いの「土佐藩邸跡」の石碑の他に、黒っぽいビルの下の方に「土佐藩役宅址」のプレートがあります。歩いてみると、改めて近江屋と土佐藩邸の近さを感じ、ツライものがありますね。こちらでは土佐藩邸内で起こった事件として、麻田時太郎の切腹の一件のお話を聞きました。当時の士道というものについて非常に考えさせられる事件だと感じました。なお、このビルには以前、龍馬、瑞山、寅太郎、慎太郎の「土佐四天王像」があったそうです。写真で見るとかなりかっこいい像なのですが、復活はしないのでしょうか?
 土佐稲荷神社。もともとは土佐藩邸の中にあった稲荷社。こちらの龍馬像は損傷がひどいのですが、既に原型をとどめないほどになっています。風化ではなく明らかに人為的なものですよね。心ない人の行為には非常に腹立たしく感じますが、そろそろ修復に入ってほしいところです。
 再び、木屋町通りへ出て、新しく建てられた石碑へ。此付近坂本龍馬妻お龍独身時代寓居跡・此付近京都府知事中井弘幕末期寓居跡。今年3月に京都龍馬会さんによって建てられた碑です。何と言ってもお龍さんの「独身時代」という響きがいいですね。この付近とあるように、お龍さん回顧談によると、実際はもう少し四条通りよりかもしれないそうですが、正確なところは今のところわかってないそうです。
 三条通に出て、一気に繁華街となりました。まずは、池田屋騒動跡。メジャーな史跡だけあって、ガイドマップ片手に見学に来ている観光客がチラホラ見受けられました。最近ニュースにもなっていましたが、夏には居酒屋「池田屋」としてオープンするそうです。やはり一度は御用改め(?)に訪れてみたいですよね。「維新史跡 池田屋騒動之址」の石碑の東側歩道には「池田屋事変跡地 元治元年六月五日(西暦1864)」と記された金属プレートが埋め込まれています。このプレート、気付かない人も多いのではないでしょうか?ヘタすると思いっきり踏まれていたりしますよね。
 河原町通側に回って男前の桂小五郎像。ここで講師の片岡さんが「ここに像がたっていますが(云々)―」と解説している中、「たってないよ〜座ってる〜」と鋭いツッコミを入れた人物が、誰あろう事務局長ご子息、龍之君!でした。タッちゃん、史跡探しだけでなくお笑いの才能もあるのでは!?因みに桂小五郎の像というのは日本全国ここにしかないそうです。地元長州にもありません。その理由もお聞きしましたが、桂さん、つくづく不憫というか報われないですよね。なお、個人的には2010年の大河ドラマ主役の福山雅治は龍馬さんより桂小五郎のイメージなんだけどなあ。いや個人的に
 川沿いに少し下ると左手に大村益次郎寓居跡。さらに少し南側の川の対岸には、(佐久間)象山先生遭難之碑と大村益次郎卿遭難之碑が並んで建てられています。元治元年と明治2年にそれぞれこのあたりで襲撃を受けて殺害される両名ですが、幕末の志士の中でも超個性的なこの二人、暗殺に関する碑が仲良く並んでいる様子をあの世から見て、お互いの事をどう思うのでしょう。
 丸太町橋を渡って「山紫水明処 頼山陽書斎」へ。篤姫様もご愛読、幕末の志士達にも大きな影響を与えたベストセラー「日本外史」で有名な頼山陽先生の書斎です。こちらは、一般公開はされておらず見学には予約が必要。一度に大勢は入れないため、2組に分かれて係の方のお話を聞きました。
 文政11年に建てられたこの書斎、対岸から見ると日本昔話に出てきそうな佇まいでしたが、内部は、大変に凝った造りです。障子にはギヤマンガラス(当時はこれ1枚の代金で家が建てられたとか)、葦(よし)を漆仕上げした網代作りの腰板、南天の自然木を使った遊び心のある出窓、丈夫な栗の木を使用した中国風の洒落た感じの縁側の格子。

 中でも面白かったのは赤松材の床柱です。思い入れのある古材をリサイクルして使ったものだそうで、埋め木されている部分を見せていただきました。なお、当時は鴨川の流れが建物のすぐ下まで来ており、山陽先生は執筆の合間に縁側から釣りを楽しんだり、庭の降り井(半地下になっている井戸)から汲んだ水で茶を点てたりしたそうです。
 また、「山紫水明」という言葉は、元々「山は紫に、水は明かに見える」時分(午後4時頃)をさしたものだとか。実に居心地のよいお座敷でしたので、ここで思う存分ごろごろしたい、今日も明日もごろごろしたいという思いにかられました。都会の真ん中にこれほどの場所があって、大切に保存されていることに感動です。
Q本日の講師のお話はいかがでしたか?
Qためになったエピソードや印象に残った話はありますか?

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毎年恒例の忘年会。いつもは新年会がメインでしたが、今年は忘年会を開催しました。
恒例の大阪龍馬会10大ニュースでは、Kさんがテレビ出演した映像を見たり、龍馬伝のメイキング、JIN-仁-の名場面など見ました。
クイズ大会は思考を凝らして写真をメインに使いました。

龍馬大学校 連続講座も行いました。

12月13日 忘年会 鳥よしにて  18名

5月17日 高瀬川・木屋町 幕末史跡散歩  講師:片岡英理子氏
 少し先へ行くと今度は瓢箪屋跡があった。ここは安政2年(1855年)に清河八郎が宿泊した料理旅館だという事だ。東横堀川に架かる葭屋橋の近くにあり、現在はビルになっている。

 葭屋橋を渡り、川沿いまで降りて次の説明を聞いた。竹式楼跡である。長岡藩士・河合継之助が宿泊したところで、越後の長岡から備中松山藩の山田方谷を訪ねるため西へと向かい、大坂に到着した際ここに泊まったのだ。現在はどこかの作業所になっているらしく、それらしき車両が止まっていた。

 さらに先へ行くと、天神橋が見えてきた。この橋は私が今まで見た橋の中で1番気に入っている橋だ。堂島川と土佐堀川、2つの川に架かるこの橋を渡っている時にふと上を見ると、空がとてつもなく広く見える。いや、実際に空はとても広く大きいものだが、都会に住んでいるとマンションやビルがたくさん建っているためあまり広い印象を受けない。だから、ここから空を見て癒されるのである。夕方に西の空を見ると、大阪湾の方へと沈んでいく夕日がまた格別である。
 それから、京阪電車・大江橋駅まで移動して開通約6ヶ月の中之島線に乗った。と、その前に改札階にある通路の壁に掲示されてある“中之島界隈蔵屋敷跡”というモニュメントを見た。古地図のようなとても面白いモニュメントだった。そこで講師の一言、「この図が載っている本がこちらの本屋で販売されていますよ。」と聞いたとたん、どうしても買いたくなってその本屋へと入ると、みんなわれもわれもと同じ本を片手に龍馬会の会員で突然レジが大混雑、お店の人もビックリしていただろう。
 桜がちょうど咲き始めた3月29日、龍馬会に入会してから初めての大阪史跡探訪イベントに参加しました。講師が長谷さんのこのイベントは、「とにかく歩くよ!」という噂は聞いていたので、体調も整え、気合い十分で参加しました。集合場所の西長堀駅に到着すると、すでに多くの老若男女が集まっていて、何度見ても不思議な光景(笑)。
 こんな性別世代を超えた人たちを惹きつけてしまう幕末明治維新という時代、そして大阪龍馬会ってすごいなあ、と改めて実感する瞬間です。
1月3日 龍馬速報 110号発行 56頁
 2009年11月15日が日曜日で、このところの「龍馬伝」ブームもあって、墓前にお参りするのも大変な混雑だろうと予想していましたが、以外や以外!境内はよさこい祭り姿の若者でごったがえしていましたが、龍馬のお墓にはすんなりと参ることができました。
 2時間みていたお墓参りが30分ですんなり済んじゃって。ゆっくり徒歩で三条に移動して、みんなで食事をしようという事になりました。
(11月の秋晴れの中、八坂神社では結婚式や七五三のお参りでお祝いムード一色でした)。
 あっちゃんおススメの池田屋跡の居酒屋、その名も「池田屋」は、ランチ時に話題の定食があるという事で行ってみましたが、入ってびっくり!!いきなり大階段があって、店員さんは羽織姿で、定食のネーミングも「近藤勇」定食や「土方歳三」定食で。とーってもわかりやすくて、皆で笑いながらいろんなメニューをとりました。
 いやいや、お寿司も手頃な値段でなかなか美味しかったですよ。
 江戸時代から残っているという階段を上がると、市民の憩いの場という感じの公園があった。北大江公園というらしい。そこの縁石に全員腰をかけながら、講師から『大阪会議』の全容を聞いた。公園前のマンションには江戸時代から明治時代まで三橋楼という料亭があったそうだ。高台にあるため、天神橋・天満橋・京橋の3つの橋を眺望する事ができたので三橋楼(サンキョウロウ)と名付けられたとの事だ。明治6年に、征韓論で敗れた西郷隆盛や江藤新平ら維新の貢献者が政府を去り、木戸孝允も思うところがあって下野する。1人政府に取り残された大久保利通は、このままではせっかくできた新政府の存続が危ういと、下野した木戸や板垣退助を政府へ呼び戻すため大阪へ乗り込んでくるのだ。五代友厚や井上馨らの助力があり、まずこの三橋楼で木戸と大久保が対談する。話は進まず、伊藤博文の宿泊先であった専崎楼で、木戸の宿泊先であった加賀伊でと、何度も話し合った結果明治8年2月11日、加賀伊において和解が成立し条件付きではあるが、木戸・板垣は政府へ復帰する事となった。大阪会議の成功を記念して、木戸自らが筆を取り「花外楼」という書を残したのだ。その後、店の称号も「花外楼」と変更されたという事だ。
 天満橋には今も“八軒家船着場”という水上バスの乗り場がある。以前の松阪屋裏手の川岸にあり、観光客やデートなどで休日はとても人が多い。しかし、幕末の頃は現在の場所ではなくもう少し西側にずれていたらしい。京都〜大坂までは船で下り、この辺りの船宿で休憩または宿泊した人達は熊野参詣へと出かけるのである。そう、この辺りを起点として熊野街道があったのだ。その碑が建っていて、四天王寺を通り住吉さらに堺へと続く街道の地図が描かれていた。ちなみに、8軒の船宿があった事から“八軒家”の地名が付けられたという事だ。

 新撰組の定宿・京屋忠兵衛跡が見えてきた。現在は、私もここで買いたいと思っているチーズ屋さんの辺りがそうである。水帳(検地帳や人別帳を意味するそうだ)に寸法が記されているらしく、テキストの写真には巻き尺で測量しているのがあった。「えっ、ここまでするの!?」と思ったが、もっと驚いたのが歩道に“京屋忠兵衛”と付箋らしきものを貼り付けてあった事だ。参加していた人のほとんどが驚きの声をあげていた。

 そして、その隣にあったのが坂本龍馬ゆかりの堺屋源兵衛跡である。京都伏見の寺田屋と提携していたらしく、龍馬が、定宿の寺田屋から船に乗って大坂へ着いて利用したのが堺屋ではないだろうか、との説明を受ける。ここにも、先ほどの京屋跡と一緒で歩道に“堺屋源兵衛”と付箋らしきものが貼り付けてあった。どこまでも追究、という事を忘れてはならないと教えてもらったような気がした。ホント、いかにもこの講師らしいですわ・・・。

 永田屋さんという昆布屋の入口に“八軒家船着場の跡”という石碑が建っている。実際にあったのはキャッスルホテル裏手のビル付近なのだが、永田屋さんの御懇意で石碑が建てられたという事だ。船着場には常夜灯があったが、現在は生國魂神社の境内にある。
7月18日(土)18時00分から20時30分
    講座内容:幕末の基礎知識−前編
           幕末という時代をなるべくわかりやすく大きなテーマごとにお話しします。

8月22日(土)18時00分から20時30分
    講座内容:幕末の基礎知識-後編
           幕末という時代をなるべくわかりやすく大きなテーマごとにお話しします。

9月19日(土)18時00分から20時30分
    講座内容:龍馬の生涯 前篇
           坂本龍馬の生涯の前篇をお話しします。龍馬の魅力は少年時代から培われていた?
               劣等生だった龍馬はいかにして大きく羽ばたいたか?

10月17日(土)18時00分から20時30分
    講座内容:龍馬の生涯 後編
            坂本龍馬の生涯の後編。後ろ盾のない龍馬がなぜあのように活躍できたのか?
               龍馬の魅力が開花したこの時期。資料から様々な龍馬像をお話しします。

11月21日(土)18時00分から20時30分
    講座内容:龍馬の手紙を読みましょう 家族あて手紙に込められた家族愛
           龍馬の魅力はなんといっても手紙です。家族にあてた手紙を中心に、龍馬の本音を手紙から読み解いて
           いきましょう。みなさんと一緒に手紙を読みましょう。

12月19日(土)18時00分から20時30分 
    講座内容:龍馬の手紙の魅力とは? 志士たちとのやりとりから見る龍馬の思想
           龍馬の手紙は家族あてだけじゃない。志士たちとの往復書簡から見えてくる人間関係。
           龍馬の遺言や愚痴など家族あてとは少し違う文体を皆さんと読みましょう。
 午後からは嵐山駅からタクシーに分乗して、直指庵へ。竹林に囲まれたとても風情あるお寺で、紅葉の名所でもあるようだけど、残念ながら今年はちょっと見頃には早かったみたいです。大河ドラマ篤姫で星由里子が演じた「村岡局」のお墓がある・・・。と、
 幕末に関してはこれだけで、あとはゆっくり境内を自由散策しました。
 行きにタクシーで来た、のどかな風景の中を、帰りは歩いて嵐山駅へ。
 次の天竜寺は大変な賑わいでしたが、有名な刀傷のある弘源寺でゆっくりお抹茶をいただき、個人の所有物ということで非公開になっている龍馬像をひそかに見学し、何の看板も目印もない扉を入った所にある「お龍と楢崎将作顕彰碑」を見学させてもらいました。
 なかなか個人では行けない場所ですねぇ。入りくんでいて、覚えられない。
 午後4時。これから亀山公園に向かうはずが・・・。
 事務局長:「もう暗くなるし、皆さんお疲れでしょうし、角倉了以、もういいでしょうかー?」
 数名:「はーい」という事で、すんなり終了してしまいました。
 えっ、いいの? まぁ、いいか。
 今度は岸和田へ移動して、相馬九方住居跡・岸和田藩講習館跡へ。嘉永6年2月23日に松陰と森田節斎はここを訪れ、講習館の一室で囲炉裏をかこみ徹夜で議論を交わしたそうである。
相馬九方は、讃岐高松に生まれ、中山城山に徂徠学を学んだ後、京都で学問修行を重ね、嘉永4年、京都の蘭医新宮涼庭の推挙によって岸和田藩藩校講習館の教官となる。講習館において多くの人材を育て、藩政に深く関与した。
 その後、紀州街道の整備された石畳を歩き松陰宿泊地である塩屋甚兵衛邸跡へ。ここには10日ほど滞在し、相馬九方や岸和田の志士たちと会談したようである。(ここで記念撮)
 梅渓寺にある相馬九方の墓参りをし、岸和田城を眺めながら説明を受け、五風荘や武家屋敷跡を見学し、岸和田市駅に到着。無事に予定したコースを終えました。
 大阪南部にこれだけの史跡があるとは正直思っていませんでした。長谷さんや北浦さんからも話には聞いていましたが、実際に訪問してびっくりしました。
 とても有意義な時間を過ごすことが出来ました。史跡探訪の魅力は、実際に行かないとわからないことです。史跡のある場所、町の雰囲気、流れる風や町のにおい。これだから史跡探訪はやめられないし、大阪龍馬会の原点がここにあります。
 
 長谷講師、本当にありがとうございました。
 ここからバスで移動して泉佐野へ。豪商であった唐金家邸跡や食野(めしの)家邸跡を訪問した。とくに食野家は泉州随一の豪商でいろは蔵と名付けられた土蔵が48蔵もあったというからすごい金持ち。現在も数か所残っているそうですが、当時の隆盛を伝えるものは泉佐野第一小学校横にある立派な庭ぐらいでしょうか。細い路地に当時の雰囲気を感じ、リフォームされた蔵らしき建物が立ち並ぶこの場所は、レトロな昭和を十分感じることが出来た。
 10月25日。今から151年前のこの日、安政6年に吉田松陰が留魂録を書いた日である。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」あまりにも有名な一文です。その日に大阪南部の松陰関連史跡を訪ねた。
 長谷講師のイベントはとにかく歩く。今回もむっちゃ歩かされるのかな・・・との不安を胸に集合場所場へ。電車移動とバス移動だったので、そんなに歩くことはなかったからほっとした。
 まずは熊取にある重要文化財に指定されている中左近邸跡へ。ここに吉田松陰は嘉永6年3月3日から3日間滞在している。この後松陰は泉佐野や岸和田などの泉州地域を旅している。ここで中左近から太平天国の乱について詳しく聞いたという。(中左近はその後、尊王攘夷運動に身を投じ、横井小楠暗殺事件に関係し、明治4年に獄死している。)
 立派な建物で黒光りする板張りは長い年月を感じさせる素晴らしいもの。内部を見学させてもらい感動しました。
10月25日 大阪南部史蹟探訪vol.2 講師:長谷吉治氏 16名
龍馬速報113号 10月4日発行 60頁
6月7日 龍馬速報112号 発行 64頁

2010年になって修復されました。

 今度は四条通に出まして、坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地。龍馬と慎太郎が暗殺された近江屋の跡です。四条河原町のメインストリートだけあってかなりの人通り。ほとんどの人は石碑には注目しないまま通り過ぎていきます。ここは以前、旅行代理店でしたが現在は工事中になっています。場所を移して近江屋についてのお話を聞きました。当時の河原町通は4メートルくらいと幅が狭く、近江屋の入り口自体がかなり道路側になるそうです。その点を考えると、ちょうど石碑のある上のあたりが暗殺の現場となったのかも?との事でした。成程、何だか町並みの中に建物のパースが立ちあがってくるような感じがします。

ところで、テキストには龍馬暗殺黒幕説諸説が解説されていましたが、この表にのっていない人物で、かなり怪しい人物がいますよね?いませんか?
 豊臣秀次のお墓を左手に見て、坂本龍馬寓居跡「酢屋」へ。海援隊京都本部だった場所です。幕末には材木商だった酢屋さん。現在でも創作木工芸のお店として昔の雰囲気を残されています。ところが、向いのお店がいつの間にか「焼肉 小倉優子」になっています。やっちゃいましたね。海援隊のメンバーの名前が記された説明板を写真に撮ろうとすると、派手な看板の焼肉ダイニングの文字も映り込むではないですか。世界の海援隊とこりん星というミスマッチ。何という混沌たる現代。そんな不思議空間では、池田屋事変について解説をいただき、皆さんで集合写真をパチリ。もちろん「酢屋」をバックにですよ。
 続いて武市瑞山寓居跡「金茶寮」。当時は「四国屋丹虎」という旅館で、池田屋事件の際には土方歳三の隊が探索したという話でも有名。現在では「料亭 金茶寮」となっていますが、武市が使用していた部屋は残っているそうです。石碑「武市瑞山先生寓居之跡」の側面には「武市半平太(月形半平太)」とあります。ここはひとつ「春雨じゃ濡れて参ろう」と洒落込みたいところですが、流石にこの日の雨にそこまで体を張る方はいませんでした。

 すぐ隣は吉村寅太郎寓居跡。文久3年2月に入京してから天誅組の挙兵までの約半年を過ごした場所になります。因みにお隣の丹虎の「おくに」という娘さん(美人)は、寅太郎に思いを寄せていて身の周りの世話をしていたそうです。肖像画の寅太郎の純朴そうな顔と天誅組の結末を考えると何とも切ない話です。
 御池通を渡って佐久間象山寓居跡へ。元治元年、幕府の要請で京に上った象山は、ここを拠点に洋風の馬具をつけた馬に乗って朝廷側などに開国論を説いて回ったそうです。現在は駐車場になっていますが、「佐久間象山寓居之址」の石碑は、駐車上の看板に思いっきり幅寄せされています。プライドの高い象山先生がみたら、激怒すると思います。
料理旅館「幾松」など料亭等が並ぶ通りを抜けて――京都ホテルオークラ前へ。このあたり一画は長州藩邸跡です。これまたツツジに囲まれて下部が見にくくなっている「長州屋敷」の石碑の前で雨をしのぎつつ、八・一八の政変から、禁門の変に至る流れのお話をききました。個人的にこのへんの複雑な流れには幕末にハマった当初、ずいぶんと混乱した記憶があります。
 続いて舎密局跡を右手に見つつ高瀬川の一之舟入へ。江戸時代初期、豪商角倉了以によって、京都と伏見を結ぶ運河として開かれた高瀬川。この川を行き来する高瀬舟の港となっていた場所が「舟入」です。当時は9カ所もありましたが、現在では一之舟入以外の場所は埋め立てられているそうです。水の綺麗な川には米俵や酒樽を積んだ船がディスプレイされており、当時の雰囲気が感じられ、何だか癒されました。
 道を北に向かい、近藤勇VS幾松さんの逸話で有名であり、薩土盟約の舞台となった吉田屋跡。今はこざっぱりした駐車場になっていますが、古写真付のきれいな碑が建てられています。この地はその後、「清輝楼」という料亭となり、ここを仮校舎としてスタートしたのが立命館大学なのです。なお、このあたり一帯、現在は普通の住宅街ですが、幕末の頃は三本木という有名な花街で、明治3年から5年までは公営の遊里があったそうです。
 5月17日、大阪龍馬会イベント「木屋町&高瀬川史跡散歩」が開催されました。歴女ブームの波に乗って(?)片岡さんの講師デビュー戦でもあります。あいにくの雨、迫りくるインフルエンザの脅威の中、早速、神宮丸太町駅から鴨川河川敷へ――といきなり雨足が強くなってきましたよ〜
 そこから歩いてしばらく行くと、大阪商工会議所に着いた。五代友厚や土井通夫らの銅像が建っている。彼らは、大阪商工会議所の会頭を務めているという事だ。

 東横堀川に架かる大手橋を渡り、だんだんとオフィス街に入って来た。ちなみに、私が勤めている会社はこの近所だ。幕末期にはこの付近に船宿・河内屋与次兵衛跡がある。京都伏見の日野屋孫兵衛と提携していた船宿で、その日野屋には龍馬も宿泊した事があると手紙に残している。その日野屋から船で大坂に来て、宿泊するとするならばここ河内屋ではないだろうか、と講師は言う。今も昔も、業務提携というのは大事なことだと私は思った。それに、勝海舟が住んでいて尚且つ大坂海軍塾だった専稱寺にも近く、可能性としては大きいなと思う。
 天満橋駅の方へと向かい、地下鉄で谷町四丁目へと移動する。と、その前に現在の八軒家船着場まで行き、大川をバックに記念写真を撮る。すぐそばにはカフェがあり、中からお客さんが不思議そうに私達を見ていた。大阪に観光で来たかなり田舎の人達、と思われたに違いない。

 谷町四丁目駅を出てすぐのところで舎密局の説明を受ける。明治2年(1869年)、理化学を勉強する場所として公立の学問所が開校されたとの事だ。オランダ語のシェミー(科学を意味する)を当て字としてこの名前が付けられたらしい。明治22年京都に移転し、後に京都大学となったそうだ。
 大江橋駅から1駅のなにわ橋駅で降りて、上がるとすぐにあるのが駅の名前にもある難波橋だ。江戸時代には天神橋・天満橋と共に“浪花三大橋”と呼ばれたそうだ。また、幕末には京都で活躍した儒学者・池内大学の首がさらされた場所でもあった。以前からこの橋はよく見ていたが、いつも「ライオン橋」と呼んでいた。橋の両端にライオンの像が備えられているからだ。だから、この橋の本名が難波橋とは知らなかった。このライオン像は対になっていて、口を開けている阿形像(あぎょうぞう)と口を閉じている吽形像(うんぎょうぞう)がある。難波橋の向かい側にある大阪証券取引所前には、平成16年に建立された五代友厚の像が建っている。

 その取引所ビルの東端に専崎楼跡があった。明治8年(1875年)の大阪会議の際に伊藤博文がここに泊まり、また木戸孝允と対談した場所だという事だ。
淀屋橋界隈まで歩き、オフィス街の中(淀屋橋西側の住友ビル辺り)まで行くと講師の説明があった。後藤松陰の私塾“広業館”跡である。「松陰って、なんで吉田松陰と同じ!?」と思ったが、考えたら雅号が同じなだけで人物は全くの別人だ。頼山陽が京都に私塾を開いた時の最初の弟子で、儒学者であり漢詩人である。吉田松陰が嘉永6年(1853年)にここを訪れ、2人の松陰が対談したという事だ。
桜の季節も終わり、出かけるにはちょうど良い時期となった4月12日に『大坂史跡探訪・VOL.9』が催された。
 集合場所である四つ橋線・肥後橋駅に着いた時は、ほとんどの参加者が集まっていた。「皆さん、歩く気満々やねんなぁ。」と感心した。

 最初に案内されたのは宇和島藩蔵屋敷跡である。宇和島藩というと真っ先に出てくるのが幕末四賢侯の一人・伊達宗城(むねなり)である。伊達家とは、やはりであるが藩祖は伊達政宗の長男・秀宗だという事だ。伊達宗城は、高野長英や大村益次郎(当時は村田蔵六)などの優秀な人材を、藩内外問わず登用していたという事だ。
 土佐つながりで言えば、土佐海援隊大坂詰所「薩万」跡です。今まで場所の確定がされていなかったそうですが、長谷さんの長年の研究により場所が推定出来たということで、今回案内して頂きました。あみだ池筋の車線の上ということで、現在は全く面影は無くなっていましたが、何よりこの場所を調べた長谷さんに脱帽でした。

 私の会社の近くに適塾があるので、どうしても注目してしまいます。適塾出身はそうそうたるメンバーですが、今回のイベントで言えば、大村益次郎寓居跡、福沢諭吉誕生地です。大村益次郎は、長崎から再び適塾に戻った際に、江戸堀にあるこの寓居跡から適塾に通っていたそうです。借家でしたが、初めて家を持ったことを記念し「漏月庵」と名付けたそうで、月明かりの中で勉学に励んでいた姿が思い浮かびます。そして、さすが有名人、福沢諭吉誕生の地には立派な石碑が建っていました。京都などもそうですが、限られた地域や空間で、偉人たちが同時に関わりあって活躍していたことを思うと、すごい時代だったんだなあと感心してしまいます。

 他にも勝海舟寓居(順正時)跡や、薩摩御用商人濱崎太平次邸「ヤマキ」跡等、まだまだ書ききれない程たくさんの史跡を案内して頂きました。

それにしても今回巡った地域には、経済や学校関係、藩屋敷の史跡が多いことを実感しました。大阪市在住、勤務先も淀屋橋という私ですが、自分の行動テリトリー内に、こんなにたくさん史跡があることを知りビックリしました。またひとつ、大阪に住むことが楽しくなった一日でした。

講師の長谷さん、本当にありがとうございました。そしてイベントに参加された皆さん、お疲れ様でした。来年の大河ドラマの影響で、龍馬が注目されると思いますので、これを機にますます大阪龍馬会が盛り上がるよう、私も頑張ります!
 長谷さんが「大阪龍馬会」の旗を掲げて、いざ出発。噂通り、たくさん歩いてたくさん巡った中から、いくつか書かせて頂きます。まずは土佐藩蔵屋敷跡(土佐稲荷神社)です。土佐藩大阪蔵屋敷内に鎮守社として享保2年(1717年)に建てられましたが、明治期になると蔵屋敷跡地は岩崎弥太郎の所有になり、桜の木がたくさん植えられたそうです。今でも桜がたくさん咲いていて、この辺りでは桜の名所との事。出店もあったりして、一足早いお花見気分も味わえました。そしてここ土佐稲荷神社は、堺事件の11烈士ゆかりの地でもあります。事件に関わった29名がここで謹慎になり、その中から切腹する20名をみくじで決めたそうです。堺イベントの時に妙国寺でみた遺髪や血染めの三方を思い出し、また切ない気分になりました。
3月29日 大坂史跡探訪vol.8 講師:長谷吉治氏  34名
3月15日 龍馬速報 111号発行 56頁
1月25日 新年会 会場:鳥よし
恒例の新年会。龍馬会10大ニュースや景品争奪クイズ大会など大いに盛り上がりました。
番外編:帰りの電車で、事務局長が間違って1つ前の駅で降りちゃって、皆も疑うことなく、ぞろぞろとついて降りてしまいました。(Nさんだけは、「あれぇ?」って言いながら、ついつい一緒に降りてしまったよう。)「どないしたん事務局長!」とみんながつっこむ中、動き出した電車の中でただ一人、降りることのなかったOさんが、ドア越しに笑みを浮かべながら去っていったのでした。

 2009年は11月15日だから人がいっぱいだろうと思っていましたが、朝早いせいかスムーズに墓参りを終えることが出来ました。今年のお花はデンファレランを皆様で分け合いお供えしました。
 弘源寺の刀傷を見て日本の礎を築いた人たちがここに屯所を置いていたのだと思うと感慨深かったです。3時間の二次会楽しかったこと。楽しかったこと。京都にいることを忘れ夜遅く家に着いた次第です。ありがとうございました。

8月30日 龍馬大学校  会場:大阪市立中央青年センター 29名
        講師:北浦康男氏
 演題:吉田松陰の足跡

 最後は古高俊太郎邸跡(しる幸)。グルメガイドによると「しる幸」は、利休弁当やお味噌汁が有名だそうです。そんな優雅なイメージとは反対に古高俊太郎といえば、苛酷な拷問ですよね。古道具屋「桝屋」を隠蓑に密かに武器弾薬の収集が行われていた古高邸に、元治元年6月5日に新撰組の捜索が入るわけですが、もともとは宮部鼎蔵の捕縛という別件での捜索だっただけに運が悪いと言えば、悪いのでしょうか?何だか、先ほどの刀傷といい、拷問といい、非常にダークな世界に入り込んでのラストとなりました。そして雨は降り続くのでした。
 そこから天満橋の方へ歩くとすぐにあるのが、今でも営業をされている花外楼だ。元冶元年(1864年)、追われて京都から逃げてきた長州藩士を匿ったそうで、以後は志士達の集合場所になったとの事だ。明治時代になってからは、大久保利通が木戸孝允や板垣退助らと数日間をかけて話し合いが行われた場所でもある。花外楼の隣にあるビルの壁には『三権分立 漸次立憲 合意に至る(大阪会議)』のレリーフがあった。
 そして近くにあるのが三菱発祥の地、岩崎弥太郎邸跡。今まであまり大きく取り上げられる機会がなかった岩崎弥太郎が、来年の大河ドラマ「龍馬伝」で準主役的な立場で描かれるそうで、演じるのは香川照之さんとの事ですが、どんなドラマになるのか非常に楽しみです。正直、あまり彼に注目することはなかったのですが、土佐稲荷神社に桜を植えたり、東京に移っても土佐稲荷だけは三菱で守ることにした事など、結構粋な人物だったのかも、と思ったのでした。

 さらに司馬遼太郎は、この土佐藩蔵屋敷跡にある通称マンモスアパートで「竜馬がゆく」を執筆していたそうです。土佐藩ゆかりの地で、土佐の男を描くって、うーん、すごいです。
2月11日 総会+講演会「史跡巡りの楽しみ方」  会場:大阪市立中央青年センター 22名
       講師:事務局長:林慎吾氏・北浦康男氏・長谷吉治氏
 堺筋を渡り、少し行くと普通のビルの方を向いて講師の説明があった。そこは、月照の生誕地であるという事だ。清水寺成就院の住職を務めていた月照も生まれは大阪だったのだ。
 本町駅の方へと歩き、また新しい史跡みたいだ。と言っても石碑や案内板はない。近藤長次郎の妻であるお徳の実家・大和屋弥七邸が、この辺りにあったと説明を受けた。近藤長次郎とは、みなさんご存じのように龍馬と同じ土佐藩出身で、しかも龍馬の実家とは近いところに住んでいた。その頃は饅頭屋長次郎と呼ばれていたが、後に勝海舟の門下生となり龍馬と共に亀山社中(海援隊の前身)を設立した、龍馬を知る上で重要な人物なのである。しかし、その奥さんの実家って・・・講師のこだわりがまた垣間見えた気がした。

 ここでタイムアウトとなり、家路へと急ぐ人・飲み会へと急ぐ人に分かれたのだった。
 本当に、どれだけ数があるのか・・・。VOL.1から始まり今回がVOL.9である。数えたら700箇所は超えているのではと思われる。私はいつから参加したのか忘れてしまったが、最初から参加されている方は優に700箇所は回っている。素晴らしい数字だ、と感心してしまった。
 長谷講師、これからももっと大阪の史跡追究を頑張って下さい。そしてVOL.8に続き今回もありがとうございました。
 次に向かったのが大村益次郎寓居跡である。漏月庵と名付けられたこの住居から適塾へ通ったという事だ。大村が初めてこの家に入った時、月がとても明るく軒の廂から月が見えてそれをすごく気に入ってそう命名したとの事だ。
 西区の靭公園東北角に大阪科学技術センターがあるが、幕末の頃は五代友厚邸があったそうだ。明治時代より大阪での功績がある五代だが、皆さん知っての通り薩摩藩出身である。薩摩藩家老・小松帯刀と懇意にしていた五代は、帯刀の死後その愛妾・お琴と娘を引き取りこの邸内に住まわせていたという事である。また、やはり同じ薩摩藩出身である大久保利通が、明治7年12月から翌8年の『大阪会議』までこの邸に宿泊したそうだ。
4月12日 大坂史跡探訪vol.9  講師:長谷吉治氏 42名