それからしばらく歩き、着いたのは妙国寺というすごく有名なお寺である。まず、国指定天然記念物の大蘇鉄がある。この寺に植えられていたソテツを織田信長が安土城に移植させたところ、毎晩のように「堺へ帰りたい」と泣くので信長が怒って刀で切りつけたら、ソテツから鮮血が吹き出し気味が悪くなって堺へ返された、という事だ。また本能寺の変の際、徳川家康は堺を訪れていてこの寺に宿泊していたが、京都での信長訃報を聞き急いで三河へと帰国し難を逃れたのだそうだ。

 それと、幕末関連では慶応4年に土佐藩士が起こした堺事件という、フランス水兵11人を殺害するという大事件があった。その責任として土佐藩士11名が切腹させられたがその場所がこの寺である。フランス側は当初20名の切腹を要求したが、あまりの凄惨さに11名の切腹が終わったところで中止を申し出て結局9名が助命されたのだ。この寺も『堺文化財特別公開』という事で貴重な品々が展示されていた。堺事件に関係する遺品(切腹した土佐11烈士の遺髪など)や、徳川家康が献上したと伝えられる茶碗などである。切腹した11人の遺体は、最初ここ妙国寺に埋葬される予定だったが事情があって隣の宝珠院に埋葬されたという事だ。その宝珠院も、太平洋戦争で本堂は消失してしまったらしいのだが、今はその跡地に保育園が建っていてその敷地内に11烈士の墓があるとの事だ。“史蹟 土佐十一烈士墓”という石碑もあった。

 次は、奈良県へと続く竹内街道を走る。この街道のほとんどは、今の国道166号線となっており車の往来がとても多い。車から降りるとそこは竹内の集落で、松尾芭蕉ゆかりの綿弓塚からは大和三山が見渡せた。

 その国道を車に気をつけながら歩いて行くと、歴史のありそうな古民家があった。その家は当時旅籠で、吉田松陰が宿泊している。松陰は友人の手紙を五條の森田節斎に届けるために、私たちも朝から通ってきた道を通ってここで宿泊したのだ。残念ながら中は見学できないが、内部には松陰が使った部屋がもちろん残っているという事である。家の裏手へ回り、その部屋であろうと思われる窓などをカメラに収めた。

 少し歩くと竹内峠がある。吉田松陰はこの峠を越えて先出の旅籠に宿泊している。旧道には松陰や天誅組が通った事を示す石碑が建立されている。また、昔は鶯関と呼ばれていたそうだが、この日もどこからか鶯の鳴く声が聞こえてきた。そういうところは今も昔も変わらないみたいだ。

 しばらく車を走らせ着いたところは、白木陣屋跡であった。石垣のみが残っていて、表門は千早赤阪村の旧家に移築されているのだそうだ。天誅組はここ白木陣屋に赴き、馬や武具などを借り受けたという事だ。
 杉山家住宅を見学した。国の重要文化財に指定されていて、屋敷の中には山岡鉄舟がここを訪問した際に贈られたという書
が展示されていた。中に入ってすぐのところに展示されていたが、達筆すぎて読めなかった。また、この杉山家には大久保利通
明治時代に訪問しているそうだ。理由は、大阪・北浜の花外楼で開かれる大阪会議の前の休養といったところか。狩猟や楠木
正成の史跡散策をしながら、その間の昼食をここ杉山家でとっている。この事からも当時の杉山家がいかに繁栄していたかがう
かがい知れる。邸内をくまなく見学する人・お庭が見えるお部屋で休憩する人と、しばし思い思いの時を過ごす。私は台所や土蔵
などいろんな箇所を見学した。

 仲村家住宅の方は、内部を見学する事はできなかったが外観は残っていた。杉山家と同じ裕福な商家である。先出の辻幾之助
はここで水郡善之祐と一緒に吉田松陰と会談をしている。
 西方寺にある辻幾之助記念碑が建立されている。幾之助は水郡善之祐とは親戚筋にあたり、その縁で天誅組にも参加している。このお寺には仲村徳次郎のお墓もある。徳次郎も天誅組に参加した1人で、もともとは商人の子供であるが水郡善之祐を慕っていたのであろうか・・・。河内勢は武家出身の人が少ないように思えるが、それでも挙兵に参加するとは、南河内の人達は義に厚く志が高いようだ。

3月30日 龍馬速報107号を発行しました。52頁

2008年(平成20年)
 平成20年11月30日、いよいよ待ちに待った龍馬の墓前祭!お恥ずかしながら、今年の2月に龍馬会に入会した私にとっては、まさに人生初の墓前祭でした。

 京都霊山護国神社に続く維新の道が、まさかあんなに急とは知らず、なるほど〜、維新の道とは言い得て妙ですな〜、と一人で感心、そのうち汗が出てきてコートを脱ぎ、カーディガンを脱ぎ、やっと集合場所に到着しました。入り口を抜けて階段を上がって行く途中にも、何人かの幕末の志士達の招魂碑があり、どんどん気持ちが高まっていきます。ふいに見晴らしのいい場所に着いたと思ったら、そこがまさに龍馬、慎太郎、藤吉のお墓。眼下に広がる京都の街と、ちょうど見頃に染まった山肌、それを見守る3人の墓前に立ち、ため息が出るほどに感動しました。しかも宮司さんのお話では、霊山で御所が見えるのはここだけとの事。天皇を中心とした新しい国を作ろうと奔走していた龍馬が、この場所から御所と京都の街をずっと見守っているんだな〜、と、さらに感動。
 
 そして事件は起こりました。なんと私も玉串の奉納をさせて頂く事に!!初墓前祭にしてこのような貴重な体験をさせて頂き、本当に龍馬会に入って良かった〜、と心の中で叫んでいました。桂小五郎、幾松夫妻のお墓参りも出来、大満足の墓前祭は終了しました。途中転んでしまった龍っちゃん、もう元気になったかな?
 11月に入ってすぐの3連休の中日、11月2日に堺史跡探訪が開催された。集合場所は南海本線の浜寺公園駅前である。歴史のある駅舎で明治40年(1907)に設計されていて、約100年経った今でも現役の駅舎である。私が子供の頃は、夏休みによく阪堺電車・恵美須町駅から約1時間かけて浜寺公園駅まで来たものだ。その時少し離れた場所にあるこの駅舎を見て「あの建物、白くてきれいなぁ・・・」と思ったものだ。

 浜寺公園の中へと入り、すぐの場所にあるのが『惜松碑』である。この辺りは昔、高師の浜といわれた松の美しい浜辺であった、と講師の説明を受ける。それを聞いて、百人一首の「音にきく高師の浜のあだ波は・・・」という歌が頭の中をよぎった。南北朝時代にはこの浜辺に大雄寺という寺が建立され、別名を『高師の浜寺』と呼ばれていた事から“浜寺”のみが残りここの地名となったのだそうだ。明治の世になり、維新で禄を失った士族のためにここの松が民間に払い下げられ、伐採されようとした時に浜寺を訪れていた大久保利通が百人一首の歌になぞらえ、この地に無くなりつつある松を惜しむ歌を詠んだという。それが時の堺県令へ届き、伐採は取り止めになったそうだ。大久保って案外に粋なことをする人だなぁ、と思った。その時大久保の詠んだ歌はこの『惜松碑』に刻まれている。
 2008年8月24日(日)大阪市立中央青年センターにて「納涼夏祭り・室内レクリエーション大会」が行われました。えっ、これは何ですか?と案内を見て不思議に思われた方もいたかもしれません。この場を借りてご説明しますと・・。

 2007年は大阪龍馬会創立20周年!お芝居などの記念行事を行おうという企画もありましたが、諸事情で行えず・・・今回の龍馬大学校で一気に映像で20年間を振り返り、その後、参加者全員が楽しめるクイズ大会を行おうという、通常の「大学校」から逸脱した「大レクリエーション大会」を行うことになったのです。

 まず『映像で振り返る大阪龍馬会の歴史』では、事務局長の解説付きで1987年(昭和62年)から順に、その年に行われた行事・イベント・集合写真・会報の表紙が大画面で映し出されました。20年もの活動記録はさっと映し出されるだけでも1時間かかるほどのボリュームで、特に私にとっては、1990年代の龍馬LIVE(お芝居)やカレンダーなどの写真は思い出がいっぱいで懐かしいかぎりでした。若々しいメンバーの姿が映し出される度、「あーまだこの頃は髪の毛が・・・」とか「スリムだったのに」とかいう、ささやきも聞こえましたが(笑)。また、会報の表紙の進化もすざましいものがあるなと感心しました。

 そして全員参加のクイズ大会では、上田・長谷・北浦・村田チームに分かれて、クイズ番組「ヘキサゴン」のように、様々な手法で幕末関連のクイズが出題されました。

 「4つのヒントで早押しクイズ」、史跡の場所を当てはめる「史跡クイズ」、「4人で完成ネプリーグ」、四択問題(龍馬編)(幕末編)(芸能編)(大阪龍馬会編)などなど。その数、トータル147問。時間にして3時間!(出題されたクイズ問題が後ろに掲載されています)。
 出題する側も頑張ったでしょうが、最後まで真剣に答えられた皆さんも偉い。そしてコツコツ点数をつけ続けた私もエラかったです。歴史に詳しいだけでは正解できないような、雑学めいたものや大阪龍馬会クイズなどもあって、まさにマニアック集団・大阪龍馬会にぴったしのイベントだったと思います。優勝された村田さんチーム、おめでとうございます。そして子守りまでしていただき、本当にありがとうございました。
恒例の新年会。龍馬会10大ニュースや景品争奪クイズ大会など大いに盛り上がりました。

 次に向かったのは、本願寺堺別院である。ここは明治4年から約10年間、堺県庁として使用されていた寺である。先出の大久保
もここを訪れたのかもしれない。境内には堺市指定有形文化財の梵鐘があるとの事だ。

 しばらく歩いて南海電車・堺駅を通り過ぎ海の方へ行くと、大きな石碑が2つ並んでいる。右側にあるのは“天誅組上陸の地”の石
碑で、左側は“堺事件発祥の地”
の石碑である。天誅組の一行は京都を出発して淀川を下り、大阪湾へ出てここ堺に着いたのであ
る。そして、大和へ向かうべく東へと向かい途中の河内で同志を集めたのだ。堺事件の方は先ほども触れたが、フランス水兵が殺害
された場所がここなのである。

 堺旧港にある龍女神像を見ながら、次に訪れたのは大浜公園だ。なぜ公園に?と思ったが、この公園は実に面白い。まず、幕末
の頃はここに南台場と呼ばれる台場があったが、その台場跡は明治12年に大浜公園として開園したとの事だ。砲台跡の石塁も残っ
ており、勝海舟が大阪湾一帯の海岸防備を広範囲にわたり(遠くは和歌山の加太まで)検分していた事がうかがい知れる。それと、蘇
鉄山という日本一低い山がある。ちゃんと一等三角点も設置されているのだ。山頂には“堺 南台場”と石碑がある。大阪港にある天
保山が1番低いと思っていたが、その天保山とは兄弟関係にあたるのだそうだ。この蘇鉄山を明治天皇も登山され、公園内には“明
治天皇巡幸記念碑”もあった。やはり、“1番”という言葉には弱かったのか…。そして、なぜか猿山もあった。明治時代には遊園地も
あり動物園もあったらしいが、閉園の際に他の動物は引き取り手があったものの猿だけがなかったとの事で、そのまま猿山だけを残し
たらしい。広い公園内にポツンと猿山のみがあるが、中にいる猿たちはとても元気そうだ。

 この後は、また南海電車・堺駅まで帰ってきてこの日の行程を無事終了し解散となった。

 次は、先出の水郡善之祐の邸だった。水郡家は武家出身ではなく庄屋であったが、善之祐が後に天誅組3総裁の1人となる松本奎堂らと親交があったため、そして何よりも善之祐の志が高かったから義挙に参加したのだろう、と思う。そういう気持ちを持っていれば誰もが志士となれるのだ。

 水郡家の菩提寺である養楽寺に着いた。水郡善之祐や長男・英太郎のお墓があり、土佐藩出身の吉村寅太郎や那須信吾などがここで寝泊りをしていたという。

 昼食を取り、次に向かったところは錦織神社という所だ。ここには天誅組河内勢顕彰碑が建立されている。そして、河内勢の1人である和田佐市という人の碑もあった。和田は農業をするかたわら、善之祐が開いていた道場へ通い剣術を学んでいた。そういう縁から、天誅組に参加したのである。

2月17日 総会と講演会を大阪市立中央青年センターで行いました。18名参加
  

天誅組を語るには忘れてはならない人物で、伴林光平という人がいる。天誅組河内勢の1人で、この人が捕まった時に書いた『南山踏雲録』のおかげで私達は現代でも天誅組を知る事ができた訳である。その光平が子供のとき養子となって住んでいたのが西願寺である。建物が残っていれば嬉しいのだが、光平が捕まって京都の六角獄で処刑されてから廃寺となったそうだ。伴林光平の人生の軌跡が、今の世に伝わらないように思えて残念な気がした。
 そしてこの辺りから本格的に気温が下がり始め、末端冷え性の私には、寒さとの戦いという新たな試練が追加されたのです。そんな
寒さの中、電車を乗り継ぎ回ったのは、膳所城事件の史跡。佐幕派藩老の上阪三郎右衛門の何気ない一言で処刑されることにな
った十一烈士。彼らのお墓を一つ一つ見るうちに、複雑な時代背景だったとは言え、あいまいな内容で処刑とはさぞ無念であったろう
と、寒さも相まってブルーな気分に…。こういう各地で起きた様々な事件の真相を、家茂が知り得ることはあったのでしょうか。

 膳所を後にし、向かったのは三井寺。三井寺駅から歩いている途中に見える、紅葉の中の琵琶湖疏水取水口。しかし寒さで意識が
朦朧とし出した私は、家に帰って暖かいご飯を食べて布団に包まることしか考えられなくなっていました。三井寺とか、もういいです…
とさえ思い始めていた私の目の前に現れたのは、そう、あの階段でした。その時ふと、これ、めっちゃ頑張って上ったら、ちょっと暖か
くなるんじゃないデスカ。そう思った私は、黙々と階段を上り、案の定、途中で体がポカポカし、意識も復活!事務局長さんの「上に行
けば休憩所がありまーす」の励ましのもと、テンションも上がって行きました。その時、幹事のK氏が一言、「休憩所に餅もあんの?」確
かさっき、膳所でコンビニに入っていたような…しかもその前に私のキャラメルも食べていたはず…。相当、お腹が空いておられたよう
です(笑)

 上に上がると、今年まだ一度も紅葉狩りに行っていなかった私にはありがたいことに、紅葉がとっても綺麗でした。途中、幕末・明治
維新の探検家、松浦武四郎のなべ塚を見て、比叡山のお坊さんが、千日回峰行に履いた沢山の草鞋を大事に残しているのを思い
出しました。松浦武四郎にとっては、なべが自分の命を支えてくれた大切なものだったのかもしれません。

 そして登山道をどんどん進み、この日のイベントの最後の目的地、西南戦争出征記念碑へ。訪れる人が少ない為か、雑草が生い
茂り、世間から忘れられたような神秘的な空間でした。大津事件の津田三蔵の、ニコライ皇太子襲撃の一因は、皇太子がこの記念碑
に敬意を払わなかったからだそうで、もし三蔵が現在の記念碑を見たら…。危険ですね。
 さて、午後からは京阪に乗っていざ大津へ。着いてまず、堺のイベントでも何個かお目見えした、日本一多い明治天皇の碑に再びお目にかかり、その後大津事件発祥の地へ。もとは日本好きだったニコライ二世が、以降は日本人を「猿」と呼ぶようになった事件。憲法を持ってたった2年目の日本が、司法権の独立を貫いた事件。そしてわずか十数年後には、この日本嫌いの皇帝を持つロシアと、恐露病だった日本の間に日露戦争が始まり、日本が勝ってしまう訳ですが、これも龍馬会のイベントではよくある光景で、そんな日本中を震撼させた大事件であるはずの跡地の扱いは、悲しくも住宅街の片隅にポツンと、此付近露国皇太子遭難之地の石碑があるのみでした…。
 次は阪堺電車での移動で、住宅街を歩いて行くとお寺が見えた。南宗寺という、この時期は『堺文化財特別公開』をしている由緒正しいだろうと思われるお寺だった。戦国時代の武将・三好長慶(河内飯盛城主)が父の三好元長の菩提を弔うために建立した臨済宗大徳寺派の寺院で、三好氏の菩提寺となっている。また、有名な千利休が修行した寺としても名高い。境内には、千利休一門の供養塔や津田宗及(千利休・今井宋久とともに茶湯の三大宗匠とよばれた)一門の供養塔もある。枯山水庭園は古田織部の作と伝えられ、国の名勝に指定されている。確かに、あの小堀遠州を茶道の弟子とする人だけあって(織部は戦国武将であるが、茶人としても有名で千利休の弟子でもある)素晴らしい庭園であった。

 南宗寺塔頭の本源院へと向かう。墓地には織田信長・信忠父子の供養塔がある。なぜここに信長の供養塔があるのか・・・。余談であるが、平成21年の大河ドラマ『天地人』では織田信長役を吉川晃司がするそうだ。キャストの顔ぶれもドラマを観るうえで重大なポイントである。予告をみると上杉謙信は阿部寛だった。「メッチャかっこいいやん!」と思ったのは私だけでないはずだ、たぶん・・・。

 本源院を出て大通りへ行く前に講師から「せっかくなので有名なお菓子を食べましょう。」と連れて行ってもらったのが、くるみ餅が有名な“かん袋”というお店だった。かき氷をかけた氷くるみ餅がとくに有名らしく、お客のほとんどがそれを注文していたが、私は少し体調が悪かったので普通のくるみ餅を食べた。いつもは買い食いをすると怒られてしまうがこの日ばかりはどうやら無礼講のようだ。
11月2日 何でもあり堺駅周辺歴史探訪  講師:小川満也氏
9月14日 龍馬速報109号 発行 56頁

再び北に向かって、谷町九丁目交差点という名の国境を越えて中央区へ入ります。アーネスト・サトウが来坂の折に宿泊した「本
覚寺跡(今は大きなマンション)」の前の道を北へ。

法性寺−明治2年浪華(大阪)仮病院の開設にあたり、ボードウィンが教師として招聘された際、法性寺を菩提寺とする薩摩藩
御用商人薩摩屋(川端)半兵衛と緒方洪庵を通して親交があった縁でここを寓居としたそうです。今回、明治3年に帰国する時に
ボードウィンが惜別の記念として残した品と緒方家から川端家に贈られた写真板を見せていただきました。遺品の青い砂糖入れ
と白い菓子器からは何だか阿蘭陀のかほりが。厚さ数センチもある写真版には薩摩屋の半兵衛・法性寺客殿・上記の砂糖入れ
が写っています。展示ケース越し等ではなく生で拝見させていただけたのは、貴重な体験でした。

 また、ご住職さんからはこんなお話も伺いました。なんでも以前に上野公園にあったボードウィンの銅像は何と弟さんの写真をも
とに作られた像だったそうです(えええぇ)その事実を知ったご住職さんが寄付をつのり、平成18年にご本人の姿の像を寄贈した
そうです。上野に行ったら是非確認に行きましょう。なお、この法性寺には坂本龍馬が潜伏していたとの話もあるとか。ご住職さん
のお話よると、震災後、芦屋にある川端家の蔵に整理のため業者の方が出入りした→その後しばらくして神戸方面から龍馬の手
紙のようなものが出た?との話が伝わってきたので、もしかしたら…との事。何となくワクワクする話です。お話の後、お菓子をい
ただいて、薩摩屋半兵衛の墓所を見せていただきました。

 伊庭八郎宿泊の地「大仙寺」の前を通って、再び天王寺区に戻ります。生國魂神社前の「水戸藩士 川崎孫四郎自刃の所
」と「笠間藩士 島男也旧居跡」
でお話を聞いて、谷町筋に出て南へしばらく歩きます。

吉祥寺−外壁のだんだら模様が目を引く門を入ると、大石内蔵助像がお出迎え。奥に進むと赤穂義士四十七士像がド迫力で
鎮座しています。ここはもう「プチ赤穂浪士ランド」ですね。このお寺は大坂における浅野家の菩提寺だったそうです。では、道路を
渡りまして−

萬福寺−新撰組大坂屯所となっていたお寺で、谷万太郎他20人ほどが詰
めていたそうです。本堂は昭和45年の火災後に新築されていますが、当時を偲
ばせるものとして天保年間に建てられた灯籠が残っていました。ここでは慶応
元年、倒幕の密謀を行ったとの理由で捕縛された儒学者「藤井藍田」が拷問死
しています。捕縛理由も大した根拠があるわけでなく、単に新撰組の功績をあ
げたかったためとの説もあるとの事。また、納屋で拷問死した際の藍田の絶叫
が耳に残った当時のご住職は、その納屋を板で囲ってしまったそうです。事件
の凄惨さを実に生々しく伝える話に慄然としました。

お寺を出て道を西へ。天王寺七坂のひとつ「源聖寺坂」を下っていきます。風情あるこの坂は絶好の記念写真スポット。というわけで、フォトグラフを1、2、3枚。3の倍数の時には皆さんバ…笑顔になって撮影しました。松屋町筋に出て次の史跡へ−


外山脩造−越後に生れ、河井継之助に師事した方。関西人にとっては阪神電気鉄道初代社長としても馴染深い人物ですね。
継之助の臨終に際して「寅や、おみしゃんは商人になりやい」との薫陶を受けた寅太さん、ちゃあんとその言葉を実現しています。
何かいいなあ。凄いなあ。墓所に植えられた「ぬしゅぱっ」と伸びる松の向こうの曇空に蒼い龍が見えたと同時に今年は阪神タイガ
ースいっちゃうよ!と思いました。この時は。

長州藩殉難四十八士−元治元年の蛤御門の変で敗退し捕えられ、千日前刑場で刑死・牢死した45名および尼崎で自刃した
山本文之進、薩摩藩御用船焼き討ち事件で切腹した水井精一、山本誠一郎の3名、計48名のお墓です。ひとりひとりの名が刻ま
れた48の石柱が顕彰碑を囲んで「コ」の字型に並んでいます。「コ」の字の開かれた部分に鳥居があり、ちょうど方角でいうと西北
西にあたるようです。何だか非業の死を遂げた彼ら48人が故郷を見ているような構図になっているなあと思いました。

五代友厚−天保6年生、龍馬とは同い年なんですね。大阪経済の父だけあって、墓地のほぼ中心部に立派なお墓があります。
ここではちょっとした発見がありました。関東からご参加の皆川さんによると「堀孝之」寄贈の灯籠があるとの事。えーと誰ですか?
その方は?何でも慶応元年に薩摩からイギリスに留学した一行の通詞を勤めた方だそうです。しかし、流石よく見ていらっしゃる。
教訓「見逃すな 史跡の隅にも 名が光る」

 というわけで午後の部へ向かいます。途中で「飛田新地」をサラっと通過。小川さんによると夜になるとたいそうきらびやかな場所
だそうですよ。


 午後の部は四天王寺夕陽丘駅集合。午後から参加の方々も加わって出発です。晴れ間が見えはじめましたが、その分暑くなっ
てきました。天気晴朗ナレドモ気温高シ。

 駅を出てすぐの「加賀藩大坂蔵屋敷ゆかりの石鳥居」からスタート。やはり、すべては書き切れませんのでご了承ください。続
いて「燃えよ剣」ゆかりの地、料亭「西昭庵跡」。現在は夕陽丘学園という学校になっています。そう言えば、ドラマの方の「燃えよ剣
」ではこのあたりはサスペンス物のラストに出てくるような断崖絶壁でしたが…因みに実際の西昭庵を実際の土方歳三が訪れたこ
とは「多分、まず、ない」とのお話でした。では、お寺が立ち並ぶ道を北へ向かいます。

齢延寺−門が見えた途端に皆さんから「新しくなってる!」等の声が。成程、門前に5月13日完成とあり、改装したての様子。ここ
には儒学者「藤沢東ガイ」「藤沢南岳」・土佐藩刀工「左秀行」・土佐勤皇党「島村寿太郎」のお墓があります。「島村寿太郎」のお墓
は、多くの無縁仏の墓石が階段状に連なる最上段にありました。朝から色々とお墓を見ていますが、ここでは改装したてのお寺と
無縁仏という取り合わせに何だか感慨深いものがありました。
 大阪史跡探訪イベント(世に云う市中引廻し)が開催されました。とにかく歩く!という事で阿倍野駅で全員集合までの間、軽く準備運動をさせていただきました。

 曇天の下、本日の講師:長谷さんの爽やかな笑顔に導かれ、まずは午前の部「阿倍野墓地(大阪市設南霊園)」へ。事務局長ご子息のタッちゃん(史跡巡りにかけては私より彼の方が先輩です)と戯れつつ、ぬかるみに足をとられつつ、墓地に寓居する方々にビビりつつ巡りました。すべては書き切れませんので、印象に残ったお墓をいくつか挙げてみます。

講師は事務局長の林慎吾氏で演題は「幕末維新に活躍した人々の末路」でした。
 糖分が入ってまた元気が出てきた。大通りを渡ってすぐに千利休屋敷跡があった。しかし、ここ“千利休屋敷跡”というのは江戸時代末期に利休を偲んで建てられた『懐旧庵』の跡地であり、本当に利休が住んでいたのがここなのかは分からないそうだ。

 ここ堺には明治天皇が訪れている。明治10年関西方面を巡幸の際に河盛仁平というこの地の豪商(?)宅に宿泊している。大通りの真ん中を走る阪堺電車の線路沿いにそれを表す石碑が“明治天皇行在所碑”という名前で建っていた。そして、現在の堺東駅近くにある熊野小学校内にも今度は“明治天皇御駐蹕碑”という名前で石碑があった。

5月25日 大阪史跡探訪で天王寺と夕陽丘近辺を散策しました。
もちろん講師は長谷吉治氏です。

 大阪方面へと戻り、最後は仏陀寺の前にある松田重助碑である。重助は熊本藩出身であるが、尊皇攘夷の志があり長州藩士
との親交があった。富田林で私塾を開いていたため、水郡善之祐とも親交があったが大和義挙に関しては反対していたという事
だ。その後、京都の池田屋で長州藩士らと密談していたところを新撰組に襲われた、いわゆる池田屋事件の被害者である。ここ
に碑が建っているのは、この寺の娘と縁があり、重助の位牌も祭られているためだという。

 天誅組河内勢への思い入れが感じられる、講師らしい探究心あふれるコースだった。南河内には天誅組関連がまだまだあると
いうので、機会があればまたぜひとも参加したい、そう思った。

 その仲村家へと移動するため、富田林市の寺内町という閑静な住宅街を歩いて行く。歴史があり風情のある町である。ここの道路は“あてまげの道”と呼ばれている、と講師の説明を受ける。食い違った形の道だが、なるほど向こうの方までの見通しができないほどに道がジグザクと進んでいた。
 次の狭山藩陣屋跡に着いたのだが、住宅街の中に車を止めてしばらく徒歩にての探訪となった。理由は、この陣屋がとてつもなく広かったからだ。狭山藩がこの地方でどれだけの勢力を持っていたが、陣屋の広さで分かるような気がした。まずは西濠中池址で石碑もあった。その横には下池があり、それは今も池として残っていた。それから車が通る道路へと行くと学校が見えてきたが、その辺りが陣屋の屋敷があった場所で、道路のこちら側と向かい側の学校内にも立派な石碑があった。天誅組はこの狭山藩陣屋南部にあった報恩寺に陣を置いたという事だ。
 次は丹南藩陣屋跡である。この辺りは江戸時代に丹南藩とされ、初代藩主は高木正次という。以来、高木家が代々藩主を務めてきたのだそうだ。陣屋跡の石碑は高木家の菩提寺である来迎寺の前にあった。本当の陣屋はもう少し向こうだ、と講師の説明を受ける。講師が指さした方向には大型の家電量販店があった。石碑というのは、本当にあった場所に設置する事に意味があるのではないだろうか・・・。量販店さえできなければ意味のある所に石碑を建てる事ができたのに、なんだか現代人のエゴイズムを感じてしまった。

4月20日 天誅組の南河内史跡探訪を行いました。講師は北浦康男氏

1月20日 新年会を鳥よしで行いました

稱念寺−こちらの「陸奥宗光及び陸奥家墓所跡」は一般には公開されていません。今回大阪龍馬会のイベントということで
特別に見学させていただきました。ご住職さんのご好意に感謝。ありがたいことです。この地はもともと陸奥宗光の父「伊達宗広」
が「自在庵」という庵を結んでいたところで、昭和28年に鎌倉に移葬されるまで陸奥家の墓所となっていたそうです。今では宗光の
最初の奥さん蓮子さんの墓碑のみが残っています。また、墓所ができた当初から植えられている菩提樹も1本だけ残っています。
もともと4本あった内の1本で、ご住職さんが何とか残していこうと挿し木などをされているそうです。静かに大事に守られている場
所だなあと感じました。この他、墓所には古河財閥初代頭首「古河市兵衛」寄贈の灯籠や、「星亨・原敬・林董」らの名前が刻まれ
た灯籠があり、「夕陽丘の外務大臣」を偲ばせるものがありました。

 墓所の門前には宗広の生涯と事績を顕彰する「夕陽丘阡表碑」、原敬による「陸奥宗光に追慕の意を表す碑」「伊達宗広の
句碑」
があります。この門前の史跡案内板には秘密が。なんでも大阪に数ある史跡の案内板の中で「坂本龍馬の名前が登場す
る」のはこちらだけなんだとか。「坂本龍馬先生の名前が読める案内版は稱念寺前だけ!」 うわーマニアックな豆知識!碑
が並ぶ中央にはお地蔵さんがあります。こちらは「清(さや)地蔵」と言い、宗光の2番目の奥さん、美女として有名な亮子さんと
の間に生まれた娘、清子さんが20歳の若さで亡くなった際、その死を悼んで設けられたもので等身大のものだそうです。

 なお、夕陽丘のこの付近には「小松帯刀」の墓所もあったそうです。明治9年に鹿児島に改葬されており、場所については「この
付近」ということまでしかわからないそうですが…うーん、今年の大河ドラマで小松帯刀が亡くなる場面では夕陽丘に夕陽が沈むシ
ーンがあったりしそうですよ…
 
 続いて、「口縄坂」。塀の上の猫と遊ぶ事務局長の大きな背中になごみました。ここでは「町歩きツアー」とおぼしき団体様とす
れ違いました。そして、疲れが出てきた私の目前に長い階段が立ち塞がります。しかし、皆さん結構元気ハツラツ登って行くではな
いですか。そこに史跡があるから?というわけでファイト一発。

大江護国神社−午前中訪れた阿倍野墓地に葬られた長州藩士48人の招魂社。こちらの石碑は「山口藩」殉難諸士招魂之
となっていて、裏面に48人の名が刻まれています。

 恋愛成就で有名な「愛染かつら」でも個人的にファイト一発。「料亭 浮瀬跡」「清水坂」あたりを巡り、国道25号へ。ここも七坂の
ひとつ「逢坂」のようです。

一心寺−奇抜な外観のインパクトに圧倒されつつ、広い境内で少し休憩。こちらには鳥羽伏見の戦いで戦死した「白井五郎太
夫」を始めとする会津藩士のお墓や「東軍戦死者招魂碑」があります。もともと徳川家にゆかりのあるお寺だそうで、徳川四天王の
本多忠勝の息子、本多忠朝のお墓もありました。

 茶臼山の横を通り、ラブホテル街へ突入。時刻もそろそろ暮六つ近く…

統国寺−到着時には門限を過ぎていたのですが、ご好意で入れていただきました。こちらには上記の萬福寺で獄死した「藤井
藍田」のお墓と正五位贈位記念碑
があります。お話の補足として、藍田が捕縛される際には、覚悟を決めたのか朝食を取るま
で相手を待たせて潔く縄についたとの事でした。また、こちらのお寺には何故かベルリンの壁もありました(何故ここに?)この壁
を見たほぼ全員の頭に「その時 歴史は動いた」というフレーズが浮かんだに違いありません。

 そして、天王寺公園の第6代大阪市長「池上四郎像」を柵越しに見つつラスト。予定のすべては回れなかったものの、拍手の
中、無事全行程が終了。途中経過で上田さんの万歩計は1万7千だったそうですが、最終的にはどこまでいったのでしょうか?皆
様、お疲れさまでした。これほどの場所を効率よく回れるよう手配いただき、充実のテキストをお作りいただいた講師の長谷さん、
ありがとうございました。イベント参加は2回目ですが、すっかり味を占めたと言いますか、転がる石のようにと言いますか、ちょっと
言い回しは間違っていますが、歴史を知る楽しさにますますハマった一日でした。

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 帰りは事務局長のお心遣いで、敢えてゆっくり紅葉を楽しめる道を下りました。真っ赤に染まった紅葉が本当に綺麗であちこちから皆さんの小さなため息が聞こえていました。

 今回のイベントは、私にとって初めての墓前祭と大津史跡探訪、紅葉狩りを同時に楽しめて、まさに一石三鳥、寒さも吹っ飛ぶ大満足な内容でした。最後に、今年入会したばかりの私を暖かく受け入れて下さり、大阪龍馬会の皆様、本当にありがとうございます。そして今後も宜しくお願いします!
11月30日 墓前祭+大津事件・膳所城事件  講師:林慎吾氏
8月3日 京都国立博物館 見学会
8月24日 大阪龍馬会 納涼夏祭り 室内レクレーション大会 大阪市立中央青年センター

1月3日 龍馬速報106号 発行 48頁

 山の中に入り、少し分かりにくい場所に石碑があった。長野一郎記念碑である。医術を学んでいたため医者として天誅組に従軍し、吉村寅太郎が高取城で銃弾を受け負傷した際に手術を執刀したのが長野一郎である。最後は捕まって京都の六角獄で処刑されるのだが、医者として人の命を救っただけなのにただ賊軍の側にいただけで処刑されるのは、なんだか理不尽な気がする。いつの時代も、何をしていたかはさておき戦に負ければ処罰されてしまうという、無機質なまでの事務的な事後処理があるのは何故なのか・・・。