残暑厳しい8月26日、恒例の夏イベント! 龍馬大学校が開催されました。今年はずばり!「天誅組」。25名参加されました。

 最初に北浦康男講師が「天誅組河内勢と伴林光平」をテーマに90分。林慎吾講師が「天誅組について」を90分。両講師とも天誅
組に対する思いを込めて軽妙な語り口調で熱く語ってくれました。

 液晶ビジョンを使い、写真や逃走経路、当時の記録を大画面に映し出し、みなさんが飽きないように工夫しました。思いの外好評で、
今後もこの形を続けていきたいなと思います。

 ありがとうございました。天誅組は行幸、五條代官所に吉村虎太郎ぐらいしか浮かばない程でしたが、南河内の伴林光平の話に知り
合いの住む地名や普段聞き慣れた地名などに奈良十津川あたりだけでなかったことに深いなぁー幕末ってすごい!それを語る大阪龍
馬会の奥深さも然り凄いの一言!天誅組が(回天の風穴に)南河内に住むからには、その地を歩く時意識しなくてはと思いました。感動
しました。地味なのにパワーが凄い話でした。外気の暑さよりも熱き語り口に地味とおっしゃる天誅組に力説なさるマニアックさに脱帽と
感服至りです。

 暑いから取り止めようかなと一瞬思ったりしつつ出掛けました。暑くっても出席してとても良かったです。ありがとうございました。
面白く楽しい龍馬大学校、お二人の講師にはお疲れ様でした。ありがとうございました!天誅組を拝読させていただくうちに、そうや!
次回は天狗党を講演していただければと閃き(オーバーですが)御検討いただければとペンを執りました。アンケート用紙の一部に加え
ておいて下さい。天誅組・生野義挙と詳しく御教示をいただきました。天狗党のこと少し(龍馬大学校終了後帰路途中で)現在も子孫の
方々が福井にお参りに行かれていると聞きました。帰宅後すぐアンケートを書きましたが、天狗党のことを書き忘れてしまいました。拝
読中に思い出した次第です。スミマセン。天狗党降伏・党員処刑の時期にカレンダーでは龍馬行方不明って??どこで何をしていたの
か??妄想が広がります。幹部の皆様はどう思われますか。天狗党壊滅と関係あるのかな?・・・などと又妄想?どうしていたのでしょう
。教えて下さい。(龍馬暦)いつも愉しませていただいてます。

 北浦先生、林先生、素晴らしい講演をありがとうございました。
最初に資料の分厚さに驚きましたが。中身の濃い内容で、天誅組の事がとてもはっきり理解できました。お話はとても新鮮で(龍馬会に
何年いてんね〜んというツッコミが聞こえてきそうですが)メンバーそれぞれの最後の様子を聞いて、心にしみました。自分の命をかけて
、世の中を変えようとした志はとても崇高で潔い生き方だと思いました。今の官僚や政治家を見ているとつくづくそう感じます。日本の国
のゆく末よりも自分の利益の為に悪い事ばっかりやってる姿にはウンザリです。天誅組の人達の心意気を少しでも見習ってほしいもの
です。今回のように画面を見ながら説明はとてもわかりやすかったです。良い方法ですね。

 詳細な話でよかったです。大変マニアックな話と、横断的に大略をわかりやすい話とで楽しめました。もっと聞きたいと思いました。

 鷲家口などへ行ったことがあったのですが、伴林光平など詳しく知らなかったことが、一つの流れとして知ることが出来ました。ありが
とうございました。

 今日の天誅組の話、大変面白かったです。引き込まれてもう時間?と・・・。聴く心が中途半端な感じがしました。もう一度機会あれば
続行して下さい。聞かせて下さい。

 いつも思っている事ですが、龍馬会の講師の方々のお話は内容もすごいしテキストの充実ぶりにはいつも驚かされます。私たちだけ
が聞かせて頂くのはなんともったいない事でしょう!今幕末を勉強している学生さんや、少しでも歴史に興味のある人達に是非聞かせて
あげたいです。学校とかで講演してほしいです。幕末は特にすばらしい人々がたくさん出てきていたので、もっと色々な人に知ってもらい
たいです。日本にこんなすばらしい人がいたんだよって・・・。
2007年 (平成19年)−創立20周年−
 まさに月照上人スペシャル! 〜墓前祭と清水寺周辺〜

 今年は紅葉が遅かったが、11月の京都はやはり観光客で賑わっていた。京阪四条駅に着き、地上へ出ると四条通りは人でいっぱいで、歩くのもすごく困難だ。

 いつものように、八坂神社から円山公園そしてねねの道へと歩いて行き、高台寺まで来るとあのキツい坂道を上らなくてはならない。
「何歳になっても自力で上りたいよなぁ・・・。」と思いながらエッチラオッチラと上っていった。

 今年の墓前祭は11月18日とまさに秋本番、しかしいつもより若干寒いように感じた。集合場所である霊山護国神社の入り口に着くととたんに汗が噴き出したので、風邪をひかないように気をつけなくちゃ、とマフラーは絶対に手放さなかった。
大阪龍馬会総会を開催しました。

 まず、総会は上田敏雄氏を議長に選出し、2006年度活動報告と決算報告を林事務局長より報告し、2007年度活動方針案と予算案を林事務局長から提案があり、質疑応答の後、原案通り了承されました。その後、小休憩をはさんで、土居晴夫氏の講演「龍馬のルーツ」を約2時間30分、休憩なしで存分に語って頂きました。

  「坂本龍馬の系譜」(新人物往来社)、「龍馬の甥・坂本直寛の生涯」(リーブル社)と立て続けに2冊発刊され、精力的に校正作業をおこなわれ、ますますお元気なお姿を拝見して、頭の下がる思いです。総会翌日には高知で上記二冊の出版記念会が行われるハードスケジュールの中お越し頂きました。

 講演内容も「龍馬のルーツ」とあるように、「龍馬伝説」はどこから来たのか? 龍馬の祖先の話の初出はどの書籍で、そのような解釈をし、そこが間違っているのか。また龍馬の家紋が明智光秀の末裔と言われているがその真相は・・・などを丁寧にわかりやすく解説してくださいました。

 非常に為になる講演でした。参加された方は大いに満足されたことでしょう。土居先生、本当にありがとうございました。
 
相変わらずの辛口トークとユーモアで2年前よりお元気なように見受けられました。記憶力もなかなか確かなもので感心致しました。お体に気をつけていつまでもお元気でご活躍下さい。

 大病後も前回とお変わり無くますますお元気なお姿に感動致しました。素晴らしいユーモアセンスにも和みました。元気なパワーを頂きました。高知人の話や丹中山墓地の話を聴いていますと、先生の先祖への思いを強く感じました。

 いつもお元気で何よりです。今回も楽しい話がいっぱいで良かったです。弘松宣枝の『阪本龍馬』の『阪』がなぜ『坂』でないのか、すっきりしました。
5月27日 姫路史蹟探訪 講師:白濱忠信氏  17名
 清水寺まで戻って、また人ごみの中を出口に向かって歩くと舌切茶屋がある。月照を幼い時から知る近藤正慎の妻・きぬが営んでいた。近藤正慎とは成就院の寺侍として月照のそば近くにいた人物で、月照が薩摩へ下る際に後の事を頼まれてそれが元で奉行所役人に捕まり、六角の獄に入れられた。厳しい尋問にも耐えたがある時、獄中で舌をかみ切って死んでしまったのである。路頭に迷った家族に清水寺は境内に茶店を出させた、という事だ。

 舌切茶屋のすぐ近くに忠僕茶屋がある。成就院の下僕をしていた大槻重助が月照の死後に営んだ茶屋である。月照はこの大槻にいつもお供をさせていた。西国に下る時も一緒に薩摩まで行き、月照の遺骸を葬った後役人に引き渡されしばらく入牢していたが、許されて成就院に帰ったのだ。近藤正慎・大槻重助ともに、月照のそばにいて攘夷運動の手助けをしたために捕らわれの身となったのである。
 朝9:30にJRなんば駅前に集合し、いざ出発!と、いきなり高速道路は混んでいた。秋の行楽シーズン到来そして3連休だからかなかなか進まない。いやな予感がする・・・。高速道路を下りて一般道へ入ると今度は何やら賑やかしくみえた。どうやら泉州一帯はこの日は秋祭りらしい。9月中頃の岸和田だんじり祭りは有名だが、そういえば10月もあったなぁ、と祭りの雰囲気を楽しんだ。

 この日最初の史跡は、和歌山との県境にある境橋の仇討ち場跡だ。行ってみると以前はあった石碑がない。橋の耐震補強工事で一時撤去しているとの事であった。がっかりしたが、写真はもうあるのでまぁいいか・・・。確か、石碑には“日本最後の仇討ち場”と書いてあった気がする。土佐藩士が関係し、千屋寅之助・新宮馬之助が助太刀した場所である。

写真左:北浦康男講師

写真右:林慎吾講師

7月1日 龍馬速報 104号 発行 52頁
 姫路藩は岡山藩軍によって一時砲撃が加えられ、その場所というのもここ備前門だったそうです。備前門は備前へとつづく道、備前岡山藩池田家はかつての姫路城主で、現在残る城郭は池田輝政の時代に築造したものだそうです。砲を放ったのは備前門でまた外曲輪の天守にほど遠いこの場所。姫路藩に礼した形だけの砲撃だったそうです。ようやく許され、新政府の統治下で明治時代を迎えるのですが、姫路藩苦難のお話はまだ続きました。

 「甲子の獄」以前、藩主忠積は文久2年には京都所司代行、翌年老中上座。この頃から、河合惣兵衛ら勤皇派からの諫言もあったそうですが、悪まで保守的な立場を崩さず徳川家への忠誠を貫く。「‥そのように、忠誠心のお強い、まぁ大変に頑固な‥、テキストP10をみていただくと‥」と白濱講師。「あぁっ」と‥一同納得。これは確かに頑固一徹そうな、この場で妙な説得力をはなった「幕府最後の大老」のポートレートでした。
8月26日 龍馬大学校 「天誅組」  講師:林慎吾氏・北浦康男氏  大阪市立中央青年センター25名
 五月晴れの日「姫路藩・幕末維新史めぐり」のイベントが開催されました。9時30分JR難波に集合。播磨姫路藩へ。JR姫路駅で合流の
方たちと12時に待ち合わせ、初参加の方も多く一気に20名の団体となりました。
 次は大蔵山公園に移動した。かなり広い敷地で犬を散歩させている人が多かった。公園の中の伊藤博文の銅像があった跡地
行くと、台座が残っていたのだが何かの形に似ていた。何だったかな、と思っていたらテキストに書いてあった。国会議事堂の屋根の形
に似ていたのだ。この形をモチーフに国家議事堂の屋根が作られたとの事で、国会と神戸市の接点を見つけたと少し得意気になった。
ちなみに、ここ大倉山公園は鹿鳴館や帝国ホテルなどの設立者である大倉喜八郎の別荘跡だそうだ。

 JR神戸駅まで行くと本日の行程もラストスパートだ。1駅先の兵庫駅へ向かうため電車に乗る。兵庫駅からは歩いてすぐらしい。
まずは八王寺へ向かった。第2次長州征伐の際に、幕府側が前線の状況うかがいに屯所としたのがこの八王寺である。次は、石碑な
どはないが幕末の頃その辺りに花街があったという説明だった。立っている道路が西国街道だったとの事で、そういう場所には必ず(と
言っていいのか分からないが)花街があったのだろう。龍馬をはじめ多くの幕末の志士が通ったらしく、「長い旅路で疲れた体をこの辺
りで癒していたんだなぁ・・・。」と当時の面影は何もない辺りを見回しながら花街の風景をイメージした。
 その次は生田神社へ向かったのだがここは、今や知らない人などいないと言う神社ではないだろうか。歴史好きの人なら源平合戦で有名な“生田の森”がある所として認識しているが、やはり今年2月17日の『紀香・陣内 挙式の地』として、歴史にあまり興味がないと思われる若者にも知られた神社である。この日もいろんな世代の参拝客(やはりカップルが多かった)で境内はにぎわっていた。

 そこから道路を西に向かって歩くと、旧兵庫県庁舎がある。館内には県政資料館があり、歴代の兵庫県知事の写真が飾られているとの事だがこの日は休館日だった。

 さらに歩いて行き、次の石碑は“東郷井”という東郷平八郎寓居跡である。神戸にて軍艦を建造中だったので監督官として派遣されていた時に住んでいたとの事。昨年横須賀へ行った時に軍艦『三笠』を見たのを思い出した。あの軍艦は本当にカッコ良かったなぁ・・・。
 集合場所から市バスで摩耶ケーブルの乗り口まで移動、そしてケーブルカーに乗る。虹の駅というところに到着、ここからはロープウェイに乗る。頂上・星の駅に到着、ここは正式には摩耶山掬星台(マヤサンキクセイダイ)という。日本三大夜景の1つに数えられていて、関西では人気ナンバーワンの夜景スポットである。

 この日最初の史跡は八州嶺の碑という石碑だ。海岸防備のため大阪湾を一望できる場所を探していた幕府が、摩耶山に登った時にはるか遠くまで見える事にちなんで八州嶺と付けたのだそうだ。テキストの丸写しで申し訳ないのだが、八州とは摂津・和泉・紀伊・河内・淡路・播磨・讃岐・阿波の事である。「紀伊って、そんな所まで見えるの!?」と疑問に思ったのだが、現代の空気がかなり汚れているのか、昔の人は遥か遠方まで見えるぐらい視力が良かったのか・・・。

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 清水寺を後にして、五条坂を下りて行くと安祥院というお寺がある。境内にある地蔵堂は日限地蔵(ひぎりじぞう)と呼ばれていて、日
数を限って祈願すれば願い事が叶うといわれている。このお寺には梅田雲浜のお墓がある。雲浜は小浜藩士だが、若い頃に京都へ
出て以後京都での活動が多く、また高雄・一乗寺など京都のあちこちを転々と移り住んでいた。雲浜の妻は先にこの安祥院に葬られて
いたが、雲浜が江戸で病没すると姪が元服の際の髪を埋めて、夫婦墓として合葬したのだという。愛する人と死してなお一緒にいられ
る、というのは実に理想的だ。

 車の量が多い東大路通りを渡り、五条通りを西へ行くとすぐの所に若宮八幡宮がある。八幡宮というからには源氏ゆかりの神社で
あろう。この神社には孝明天皇のへその緒が埋められているという。なぜここに、しかもなぜへその緒なの?と思ったが、昔の人の考
える事はなんだか訳が分からない。

 月照スペシャルという感じだったが、講師らしいマニアックなコースだった。昨年の“村山たか”同様に“月照上人”も堪能できて良かっ
たと思う。
 あとは大阪市内まで帰るだけだったが、せっかくだからと講師はライトアップされている岸和田城をグルっと1周してくれた。これは、
講師の車に乗っている人にだけの特別サービスであった。

 大阪・泉州や和歌山にも多くの幕末関連史跡があり、特に勝海舟・吉田松陰も訪れているとは驚きであった。吉田松陰関係は全部回
りきれていないので、講師もすごく残念がっていた。もしかしたら来年に持ち越しかな?
9月23日 龍馬速報 105号 発行 48頁
10月7日 大阪南部・和歌山史跡探訪  講師:長谷吉治氏  20名 
善導寺にて 講演会 姫路市史編集室・藤原龍雄先生による
「姫路藩甲子の獄−尊王攘夷派の終焉−
1月14日 新年会を鳥よしで行いました。20名がご参加下さり、龍馬会10大ニュースや景品争奪クイズ大
       会など大いに盛り上がりました。
 全員が揃ったのでいよいよお墓参りである。生花店を営んでいる西尾さんが今年も供花を持ってきて下さった。龍馬・慎太郎・藤吉
もさぞかし喜んでいる事だろう。私も毎年お墓参りに来ている事だし、3人とも褒めてくれているかなぁ・・・。

 霊山を後にして、いよいよ人でごった返す道へと突入!とは大げさだが、清水寺を目指してまずは二年坂へ入る。この道は幾度となく
通った道で、右手側には私の大好きな甘党屋が見えてきた。「おしるこが食べたい!」と思ったが、今日は団体行動をしなくてはいけな
い。泣く泣くガマンだ・・・。二年坂の次は三年坂で、ここで転ぶと3年以内に死んでしまう、という言い伝えがある。でも本当は二年坂が大
同2年(807年)、三年坂が大同3年(808年)にできたからというのが本当らしい。その時代だと平安時代初期にあたる。これらの坂も
歴史は古いのだ。いつもは買い物をしたりお茶を飲んだり、という坂もまた違ったものに見えてくる。

 話を元に戻して、清水寺方面へ行く道は人で混雑しているが、右も左もお土産物店ばかりでつい目がそちらへ行ってしまう。買い食い
をしたい衝動を抑えながら
人ごみをかき分け、やっとの事で清水寺門前に到着した。この門は仁王門といって重要文化財である。

 その門から左手の方へ行くと成就院があり、そこの庭は東山を背景とした借景式でとても素敵なのだそうだ。この院の住職に月照
いう人がいて、西郷隆盛と薩摩・錦江湾で身投げをした人物である。勤皇派の月照は尊王攘夷運動に積極的に参加し、やがて安政
の大獄
の折に幕府側に狙われる事となり、以前からの親しい間柄である西郷と薩摩へ下ったのだ。しかし、薩摩藩の庇護が得られない
と知った2人は捕らわれの身になるよりは、と覚悟の自殺を図るのである。西郷は運良く一命を取りとめたが、月照は絶命したというの
は皆さんご存知のはずだ。

 その院のそばには大きな石碑が3つ並んでいる。右から西郷の詩碑・月照の歌碑・月照の弟・信海の歌碑である。その他に大槻
重助の碑・近藤正慎の碑
もある。

 いよいよ清水寺本堂の中へと入ったが、観光客がいっぱいで講師の姿も分からない。しばし、観光客に混じって普通の清水寺見物を
する。

 清水寺の裏門というのか南門を抜けて、山道を歩いていくと歌の中山・静閑寺があった。ここは、平安時代に高倉天皇の寵愛を受け
ていた小督局(こごうのつぼね)が平清盛に出家させられた場所である。このお寺には茶室・郭公亭がかつてあった。月照が西郷と攘夷
倒幕の密議を交わした場所だ。“大西郷月照謀議旧址”の石碑も建っていた。
11月18日 墓前祭+清水寺周辺史跡散策  講師:上田敏雄氏  21名 
 和歌山市内に入り、史跡はかなりの数になるので主だったものを上げる事にする。
 まず勝海舟寓居跡で、幕府の軍艦奉行並という立場の勝海舟が紀州藩に海岸防衛の検分を頼まれた際の滞在先としていたのが福島屋という屋敷である。この頃の勝海舟は、大坂・泉州・紀州と現在の大阪湾の警備に余念がなかったようだ。福島屋跡の近くにあるのが紀州藩伝法別館跡である。紀州藩の家老達と海岸防衛の話し合いをするため、伝法御殿といわれたこの地に2度訪れているという事である。

 次は、岡公園というところにある陸奥宗光像である。海援隊士から、明治の新政府では外国事務局員・兵庫県知事を経て伊藤博文内閣の時に外務大臣となった、紀州藩出身の人物である。この公園は小高い丘のようになっているが、その上から見る和歌山城はまた格別である。
 数年前にご自宅から「三忠遺牘」と表書きされた巻物が発見されたのだそう。三忠とは河合惣兵衛と土佐(勤皇党)の平井収二郎
、そして肥後藩(勤皇党)の宮部鼎蔵の3人で、津山藩士の鞍掛寅次郎宛てに書かれた手紙が収められているそうです。私は鞍掛寅次
郎という人物を初めて知りましたが、平井収二郎や宮部鼎蔵は皆さんもよくご存知だと思います。この書簡の発見により、いま姫路藩の
幕末史の研究が大きく進んでいるそうです。

 「みなさん、最後の大老はご存知ですか?」と白濱講師。幕末の大老といえば井伊直弼のイメージが強い。井伊直弼ではなかった?
ここ姫路藩の8代目藩主酒井忠積が幕府最後の大老だったそう。
 慶応元年2月に就任。前大老の井伊直弼は暗殺され、もはや名誉職でもなんでもないと思うのですが、酒井家は家康の祖父の代から
仕えた、譜代大名のなかでも最古参、徳川家への忠義その重みはやはりとても大きかったそうです。
 慶応3年、忠積は家督を譲り隠居、大政奉還から、12月9日大政復古の大号令が発せられ、この未曾有の政変のさなかの12月30日
、9代目藩主の酒井忠惇が老中上座に任命される。
 そして鳥羽伏見の戦いでは、譜代筆頭の井伊家彦根藩が幕府軍に発砲、このことは機内の譜代藩の動向を決定的にしたそうですが
、姫路藩は幕府軍として参戦。藩主忠惇は慶喜の大坂退去にも随行したそうです。その後新政府へ恭順、城を明け渡すとことを申し出た
そうですが、長州藩は「甲子の獄」で勤王派志士たちを断罪したことを“盾”に許さず、徹底武力討伐を主張したそうです。
 いま説明を受けながら立っているこの場所は、かつてその長州藩ら尊攘の志士とともに活動した仲間、河合惣兵衛、萩原虎六、江坂
元助、市川豊治、伊舟城源一郎、河合伝十郎、松下鐵馬、江坂栄次郎
が処された場所。彼らにとってなんて、皮肉なことだろう。
 三台の車に分かれ、まず向かったのは塩町の大蔵前公園。ごく小さな児童公園です。外曲輪の西南に位置し当時と変わらない川筋
で船場川が流れる。ここに「姫路藩勤王志士終焉之地」という大きな碑が建っていました。
 尊王攘夷派弾圧事件「甲子の獄」で処された彼らの顕彰碑。幕末、土佐藩など多くの藩で起こった尊攘派志士の弾圧。姫路藩もその
例外ではありませんでした。元治元年12月26日、備前門内の牢舎であったこの場所で勤王派8名の命が絶たれたそうです。そのリーダ
ーと云われるのが河合惣兵衛宗元という人。今回のイベントの主役となる人物。
 今日はなんと河合惣兵衛のご子孫の方も参加されています
 姫路駅前大手前通り正面に姫路城天守が見える。姫路城は天守閣を中心として左回りに三重の螺旋を描く構造で、一周目を「内曲輪」、二周目を「中曲輪」、三週目を「外曲輪」とし、梯郭式縄張といわれる構造だったそうです。
 中曲輪には侍屋敷、外曲輪には下級武士や町人の居住区などが置かれ、周囲の地形を利用し堀や土塁で城下町を内包した城郭都市の構成を取っていたそうです。外曲輪の南はここ姫路駅付近まで達していたそうで、今日は城下、外曲輪内の史跡を中心に幕末明治維新の歴史をたどるコース。

 本日の講師は白濱忠信さん。いつも穏やかな表情からは想像できないマニアックな研究者です。
 しかし、いつもはJRや阪神などの電車で向かう元町やハーバーランドを、こんなふうに歩くのはなんだか新鮮で面白かった。
次もまた大きな神社である。そう、湊川神社だ。ここも生田神社と同じく有名な神社で、祭神は南北朝時代の英雄・楠木正成である。足利尊氏と戦って、形勢不利と覚悟した正成は弟・正季と刺し違えて、この地で最期を遂げられたのだそうだ。
この神社は数多くの歴史的有名人と関わりを持っている。まず、水戸黄門で有名な徳川光圀で楠木正成の墓碑を建立している。そして、坂本龍馬もこのお墓に参っている。他に、伊藤博文・江藤新平・大木喬任・大隈重信は石灯籠を奉納している。その灯籠が建っている辺りで宮司さんから神社にまつわるいろいろな話を伺った。何体かの灯籠は、阪神・淡路大震災の時に倒れてしまい修復不可能となってしまったのだとか。写真も残っていないとの事で、非常に残念であった。
3月11日 龍馬速報 103号発行 40頁
 下山して、住宅街を歩くと長州藩ゆかりの海蔵寺に着いた。文久3年、兵庫の警備に当たる時ここを陣屋としたそうだ。この年は日
本各地でいろんな事が起こっており、まさに激動の年と言えよう。

 バス道を歩いて行くと、ひょっこりと出てきたのは徳川道の案内板だ。徳川道とは簡単に言うと西国街道のバイパスだそうだ。西国街
道での外国人と大名との衝突を避けるためバイパスを造ろうとしたのだが、鳥羽・伏見の戦いが起こりそれどころではなくなったとの事
。テキストには、徳川道(幻の参勤交代ルート)とあった。長谷講師に、この案内板はどうやって見つけたのかと聞く「車を走らせて
いたら偶然目にしたのです。」
と言っておられた。石碑などを見つける時って案外そういうものなのかも知れないなぁ、と思った。午前
中はここまでで、市バスで阪急三宮駅へと移動して駅周辺でランチ休憩をとる。

 午後の部の最初は、駅前の旧西国街道と書いてある石碑である。かなりの人でごった返す歩道で石碑を写真に撮る。当然の事な
がら、通る人全てがなんだか変な顔をしていた。確かに私たちは邪魔だっただろうなぁ・・・。

 三宮駅周辺にはいろんな史跡がある。まずは三宮神社へ足を運ばせる。ここは、神戸事件発生地でもある。神戸事件とは、生麦
事件と同じような事件である。生麦事件の方が発生年は早いのだが、先出の徳川道はそれを懸念しての計画だったのだ。しかし、計
画を中止したがために結局第2の生麦事件が起きてしまったという訳である。
3月25日 神戸史蹟探訪V 講師:長谷吉治氏
2月 4日 総会+講演会「龍馬のルーツ」 講師:龍馬研究家・土居晴夫氏 会場:愛日会館  22名
 その和歌山城門前には徳川吉宗像がある。ご存知“暴れん坊将軍”のモデルとして名高い、江戸時代の第8代将軍で紀州藩(徳川
御三家)出身である。ちなみに、徳川御三家とは尾張藩(徳川家康の9男・義直が祖)・水戸藩(同じく11男・頼房が祖)そして紀州藩(同
じく10男・頼宣が祖)である。徳川吉宗関連ではもう1つ、生誕の地も訪れた。石碑と案内文のみで屋敷跡などはなかった

 生誕の地といえば、陸奥宗光生誕の地もある。宗光の父・伊達宗広は、若い時からその才能を生かし紀州藩の様々な役を歴任し昇
進もしたが、尊王論を主導する立場でもあったため、ある時藩の家老に捕らえられ10年間も幽閉させられてしまった。いったんは、土
佐藩・山内容堂の口利きで釈放されたが、脱藩して尊王攘夷運動に参加しまたもや幽閉させられたという人物である。

 次は車を数分走らせ海辺の方へ、やって来たのは加太である。3連休の中日で10月の気候のよい時期だから、釣りを楽しむ人でい
っぱい・車も止めるところがないぐらいいっぱいだった。まずは、淡嶋神社へ行くと境内にはたくさんの日本人形が置いてあった。「夜
は絶対に来たくないなぁ・・・。」
と思うぐらいの大量である。この神社には勝海舟が訪れている。大阪湾の海岸防備でこの加太にも砲
台などがあったという。その際に淡嶋神社で食事をよばれたという事だ。

 次は宿泊した場所を探索する。1つは魚屋彦太郎邸、もう1つは旅館・富士屋だ。ただし、魚屋彦太郎邸の跡地は場所が特定され
ていないため旅館・富士屋のみ案内してもらった。目の前は、海を見渡せる非常にロケーションの良い場所だった

 ここで和歌山は終了して、海沿いの道路を走らせ次の場所は大阪府の岬町だ。勝海舟が宿泊した戸口仙蔵邸跡へ行く。勝海舟が
大坂から紀州へ向かう途中ここで1泊したのだ。今も子孫の方が住んでいらっしゃってお庭もきれいだった。ここのお庭には古井戸があ
り、勝が宿泊した時分にはもうあったそうだ。邸内へ入ると、子孫の方が「コーヒー・ジュースと、みかんを皆さんに」と、手厚いおもて
なしを受けた。しかも、事務局長Jrのタッちゃんにはドロップ飴まで・・・。疲れた体に、みかんの甘酸っぱい味と香りがなんとも心地良
い。人との出会いとはなんて素晴しい事だろう。本当に嬉しかった。

 戸口家を後にし、また大阪方面へと車を走らせる。ここで、道路はまたすごい混み具合を見せはじめる。秋祭りもさる事ながら、行楽
地からの帰りの人達とぶつかったようだ。私は講師の車に乗っていたが、講師の顔には少し焦りの色が出ていた。史跡巡りはやはり日
没との戦いになるため、苛立ちを覚えるのであろう。地元からの参加者である楢崎さんに岸和田への裏道があるか、と聞いていた。ここ
からはしばらく楢崎さんの車が先頭を走る事になった。

 岸和田市内に入り、旧紀州街道を訪れた。今もその当時をイメージできるような古い家が建ち並んでいる。なかなかの風情があった
。こういう場所へ来るといつも思うのだが、情緒あふれるすばらしい町並みはいつまでも残してほしいものだ。

 今度は、吉田松陰宿泊の地・塩屋甚兵衛邸跡である。吉田松陰は森田節斎とともに、岸和田藩の尊皇派志士と会談するのにここ
塩屋甚兵衛邸を借りていたのである。と、ここで日没になってしまい真っ暗になったためタイムアウトとなってしまった。
 次は、伊藤博文寓居跡である。伊藤博文は初代の兵庫県知事であったから、先出の旧兵庫県庁舎から程近いこの場所に住んで
いたのだ。テキストには庄屋の別邸とあった。敷地面積はさぞかし広かった事だろう。